第95話 ニィナと異星人
地下牢の奥、揺れる灯火が作る影の境界線。
闇の中から、フードを目深に被り、質素な外套に身を窶したクラウディアが静かに姿を現した。
石床に、ニィナの足枷が擦れる音が微かに響く。
明日死ぬというのに、体は勝手に生きようとしているのだろう。我知らず、後へ退いていたらしい。
だが、これ以上の逃げは、自分を許せなくなる。
気丈にも意を決したニィナは前に出て、恐怖に打ち勝つべく声を張った。
「元・路上住み舐めんな! 金も払わずに乗っかってくるクソ野郎が山ほどいるんだから。気配を察知するくらいできないと、一日だって生きていけないのよ。アンタみたいなお嬢様には分からないでしょうけど!」
鉄格子を掴みながら、ニィナは鼻で笑った。
処刑前でもその毒舌は少しも衰えていない。
声が僅かに震えているのを除いて、学園でクラウディアに難癖をつけていた時と同じ、不遜な態度だった。
主人への無礼を咎めようとしたソーニャを、クラウディアは視線ひとつで制した。
「……元気そうで良かったわ」
「死刑囚に向かって、元気もクソもないでしょ。そんなどうでもいい世間話をしに、こんなところまで来たの?」
ニィナの視線は、鋭くクラウディアを射抜く。
「知りたかったの。裁判で、なぜわざわざ自分を悪く見せるような真似をしたのか。あの告白がなければ、皆、貴女に同情していたわ。黙っていれば修道院行きか、悪くても流刑程度で済んだはずよ」
「心優しい皆様に憐れまれながら、惨めに生き長らえろって? はん!冗談じゃないわ」
「生きてさえいれば、また幸せだと思える日が来るかもしれない。そうは思わなかったの?」
その言葉に、ニィナは露骨に顔をしかめた。
「苦労知らずのお嬢様らしい、反吐が出る台詞……ねえ、その被り物脱いで、ちゃんとアンタの言葉で話しなさいよ」
沈黙が地下牢を支配する。
「アンタさぁ……クラウディアじゃないでしょ?」
クラウディアは、ゆっくりと、深く息を吐いた。
父エルドリックでさえ気付かなかった。
生まれた時から側にいた公爵家の家令も使用人も、誰一人として。
それなのに、なぜ最悪の敵であったはずのこの女が。
「私は私。貴女の知っているクラウディアよ。でも、同居人は初めましてになるわね。御挨拶が遅れて、ごめんなさい」
最後の一音を発した後、喉の奥から透明で粘度のある半固形の物質が、ゆっくりと這い出る。
月明かりを吸い込んで濡れた水晶のように輝くそれは、彼女の掌の上でわずかに脈動した。
「……俺はジャスパーだ。遠い、別の星から来た」
透明な塊が、意思を示すように片側を持ち上げる。
それが本体であるという、無言の合図。
言い出した本人のニィナが、目を見開いたまま固まった。
「怖がらせて悪かった。すぐ戻る。今の姿は忘れてくれ」
「……こっちこそ、自分から振っておいて、ね。ちょっとびっくりしただけよ。怖くなんてないから、そのままでいいわ」
それは強がりでも虚勢でもない、本心からの言葉だった。
「……異星人、ってこと?」
「ああ」
「そっか。じゃあアンタからしたら、私も異星人だもんね。お互い様なのに、化け物扱いは無かったわね」
驚くほど理解が速い。
生まれた環境が違えば、もっと違う未来があったのかもしれない。
「で、その異星人が、どうしてクラウディアの中にいるの?」
ジャスパーは簡潔に語った。
鉱物資源を食いつくし、星を渡り歩く種族であること。
環境適応のために、その星の生命体に寄生し操作する能力を持つこと。
星間戦争で母星が消滅したこと。
殿という名の捨て石。
宇宙船の故障。
ワープ途中で放り出されて、地球へ墜落。
そして――あの夜、塔から飛び降りた瀕死の少女。
「そう……自殺、しようとしたんだ……」
「後悔しているのか?」
「ッ、まさか!」
即答。
だが、ニィナの瞳が揺れている。
苦労知らずの令嬢に、自分の舐めた辛酸の何十分の一かでも、知ってもらいたかっただけ。
死んで欲しいだなんて、微塵も思っていなかった。
でも、そんなことを今更言って何になる。
死を望むほどに自分が彼女を追い詰めた。
それだけが事実。
「気に病むことはない。だいたい、異星人の俺を便利な道具として利用する程度には、強かな女だぞ? 殺したって死にゃしねぇよ」
ジャスパーを手に乗せたクラウディアが苦笑する。
ニィナに対して、マイナスな感情が無かったのは本当だ。
婚約者の不実に腹を立てても、浮気相手の彼女には一ミリの嫉妬すら覚えた事がない。
ユリシーズから返して欲しかったのは恋情ではなく、幼い頃から兄妹のように過ごした婚約者に対しての、最低限の親愛や敬意や礼儀だけだったのだから。
「もしかして……私に気を遣って、そう言ってくれているの?」
人間というもの全てに絶望しているニィナにとって、この不気味な粘液の方がよほど好ましかったらしい。
初めて年相応の素直な表情を見せた。
「いや、その……ただの、ちょっとした罪滅ぼし、かな」
ジャスパーは、王妃のティアラに嵌められていたスタールビーを、うっかり食べたことを白状した。
「え、食べた……」
一瞬の静寂。
そして、ニィナは腹を抱えて笑い出した。
「ちょっ……国宝を食べたとか、マジで……あははは! 食べちゃったなら仕方ないわよね、お腹空いてたんだもんね!」
涙が滲むほど笑ったあと、彼女はふっと真顔に戻った。
「裁判で言った通りよ。あの行動は全部、私の意思。誰にも操られてなんていなかった」
冷たい石床に、その言葉が重く、鋭く突き刺さる。
「私の罪は、私のものよ。何も持たずに生まれて、何も得られない人生だったけど、この罪だけは、私がこの世界に生きた証。誰にも、アンタにさえ、あげないわ」
世界との決別宣言。
それは皮肉にも、あの夜に塔から身を投げたクラウディアと同じ、最後の矜持だった。
「ありがと……最後に、アンタたちに会えて良かったわ」
迷いのない瞳。
ジャスパーには、そしてクラウディアにも、何も返す言葉がなかった。
◇
翌日は、風が強いが、雲一つない快晴だった。
刑場は、憎悪に支配された群衆で溢れかえっていた。
罪人に容赦なく投げつけられる罵声、石、下卑た野次。
同時に処刑される他の貴族たちが、醜く命乞いをし、泣き叫ぶ。
その阿鼻叫喚の中で、ニィナだけが真っ直ぐに前を見据えていた。
処刑台へ上がる足取りに、一切の迷いはない。
背筋を伸ばし、顎を引き、その表情は神聖な祭壇へ向かう殉教者のように清しい。
縄が首に掛けられる。
冷たい風が吹き抜けた。
一瞬、彼女の視線が、遥か遠くの空を見上げた。
そして正午を少し過ぎた頃、刑は滞りなく執行された。
その夜、クラウディアの密命を受け、パーシヴァルがニィナの遺体を密かに降ろした。
人目を避け、月明かりだけを頼りに北へと向かう。
妖馬トリオが夜通し駆けて、着いたのは大公国から最も遠い、パーシヴァルが治める北の辺境伯領。
そこでは、静かに雪が降り始めていた。
縄を解かれ、棺に横たえられたニィナの顔に、羽毛のような雪片が落ちる。
体温のない冷たい頬を、六花が静かに飾っていく。
それは、彼女が一生手に入れることのできなかった、純白の冠のようでもあった。
気のせいだろうか。
唇の端が、わずかに上がっているように見える。
世界を睨み続け、何一つ許さなかった少女。
最後だけは、世界で最も穏やかな顔をして眠っていた。
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完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
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