第94話 ニィナと紅い死神
ニィナの裁判を皮切りに、ゼフィロス王国の王都は正義という名の嵐の只中に放り込まれた。
証言台に立った彼女の告発は、単なる個人の罪を越え、王国の根幹を揺るがす巨大な火種となった。
大公国に寝返る際の手土産として、ユリシーズが掲げた愚策を諌めもせず、むしろ焚き付けることで国策を歪めた貴族たちの名が、次々と白日の下に晒されていく。
密約文書、不自然な軍備再編、不可解な税制改変。
点と点が線となり、やがて国家を切り売りしようとした巨大な売国の構図が浮かび上がった。
馬鹿いう名の罪は、法典には存在しない。
だが、無知と傲慢が国を傾けるなら、それは十分、万死に値する罪だ。
唯一の王位継承者であったユリシーズは、王として不適格の烙印を押された。
王族籍を剥奪され、北の塔での一生涯にわたる幽閉が言い渡される。
判決が読み上げられた瞬間、傍聴席は凍りついた。
王族が平民に堕とされる――それは、この国を支えてきた血統神話の終焉を意味していた。
さらに、大公国と通じていた貴族たちには、容赦のない断罪が下った。
直接的な内通者には外患誘致罪による死刑。
間接的にでも大公国に協力的な行動を取った貴族たちも、爵位と財産を没収され、家門は一夜にして貴族年鑑から消えた。
古い血統に代わり、実力と忠誠を重んじる新秩序が、血の匂いと共に芽吹き始めていたのである。
エルマン男爵は、陰謀そのものには関与していなかった。
だが、法廷で白日に晒された彼の歪んだ性癖は、貴族社会において死よりも残酷な失笑と蔑みを招いた。
彼は自ら爵位と全財産を国庫へ返上し、音もなく姿を消した。
処罰ではない。だが、それは事実上の社会的死であった。
◇
外患誘致罪の死刑は、公開処刑と定められている。
方法は絞首刑。
処刑後、その遺体は埋葬を許されず、刑場にて朽ち果てるまで晒される。
市民にとって、それは娯楽であり、日頃の鬱憤のはけ口であり、権力の恐怖を再確認する儀式でもあった。
執行の前夜、地下牢は重苦しい湿り気を帯び、石壁を伝う冷気が肌を刺す。
ニィナの牢の前に、一人の少女が立っていた。
黒衣を纏った侍女、ソーニャである。
鉄格子越しに、ニィナは遠慮なく彼女を上から下まで品定めするように眺めた。
「……誰よ、アンタ」
「クラウディア様の侍女、ソーニャと申します」
静かな、揺るぎのない声。
ソーニャは徐に小さなガラス瓶を差し出した。
中の透明な液体が、月明かりを吸い込んで妖しく揺れる。
「クラウディア様からの、お慈悲です。これを飲めば……必要以上の辱めを受けることなく、逝けます」
牢内での急死――病死扱いとなれば、公開処刑は取り消される。
その場合は、遺体も晒されず、ひっそりと土に還ることができる。
それが、かつての学友へのせめてもの温情だった。
だが、そこには一つだけ嘘があった。
クラウディアの許可は得ていた。
だが、この慈悲を心の底から望んだのは、ソーニャ自身。
自分と同じように、持たざる者として足掻いてきたこの女に、最期くらいは静かな眠りを与えたかったのだ。
「要らないわ」
ニィナは即答した。
「……何故ですか?」
「意味わかんないんだけど。あの女から施しを受ける理由なんてないでしょ。婚約者を奪って、冤罪をなすりつけようとした女よ? 普通、無様に死ぬところを特等席で見たいんじゃないの?」
ソーニャは言葉を失った。
彼女の中には、損得勘定無しの善意や真心、思いやりといったものは存在しないのだろう。
経験したことのない物を信じることはできない。
それは彼女が生きてきた環境の過酷さを窺わせた。
もし自分が公爵に拾われていなければ、鉄格子の向こう側にいるのは自分だったかもしれない。
その想像が、鋭い棘となって胸を締め付ける。
押し黙るソーニャを、ニィナは怪訝そうに見つめていたが、やがて短く溜息をついた。
「はぁ……変な子。でもね、なんか、アンタのことは嫌いじゃないわ」
ガサガサに乾いて歯にへばり付いた唇を無理に歪め、ニィナは笑った。
「綺麗な瞳ね。ルビーみたい。童顔だから似合わないんだけど、アタシ、ルビーが一番好きなのよ」
「不吉とか、悪魔の目だと言われたことはありますが……宝石に例えられるなんて……」
「アンタが悪魔? ……ふふ、あははは!」
ニィナは堪えきれずに吹き出した。
「それ言ったやつ、見る目なさすぎね!」
しかしその一言で、ソーニャの歩んできた険しい道が察せられたらしい。
ニィナの口調は、いつしか旧友へ語りかけるような、ざっくばらんなものに変わっていた。
「ねえ、アンタ。あんな『化け物』の下でよく働けるわね」
「……え?」
「なんで誰も気が付かないの!? 婚約破棄前と後では、まるっきり別人じゃない。辛いことがあって性格が変わっただけかと思ってたけど……違った。……私、見ちゃったのよ。あの女……人間じゃなかった……」
ソーニャは一瞬だけ視線を落とした。
婚約破棄前のクラウディアは知らない。
だが、共に過ごす日々の中で、ソーニャは主人の中に、名状しがたい異物感のようなものを何度か感じていた。
あまりにも完璧な采配。
決して揺るがない精神。
それらは称賛に値するが、時折見せる横顔は、彫刻のように美しく、そして彫刻のように命の熱が通っていないように見えたのだ。
ニィナの言葉は、ソーニャが心の隅に追いやって蓋をしていたその勘を、正確に射抜いていた。
「……ですが、私にとっては、大事な主人です。人間でも、そうでなくても……」
それは、自分自身を納得させるような、静かな、けれど決然とした告白だった。
「そ。アンタにとって良いご主人なら、それでいいんじゃない?」
ニィナは興味なさげに吐き捨てると、ふっと視線を廊下の隅へと向けた。
「……そこで聞いてるんでしょ?」
その声音に、皮肉はあっても怯えはなかった。
もはや死を目前にして、すべてを達観した者の声だ。
「いい使用人で良かったわね、クラウディア様?」
地下牢の奥で、水滴が落ちる音だけが響く。
「……気づいていたの?」
闇の中から、クラウディアが静かに姿を現した。
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完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




