第93話 売国奴の公開裁判
ゼフィロス王国の法において、貴族が裁かれる場は常に厚い帳の向こう側にあった。
それは“身分にふさわしい体面”を守るための特権であり、民衆の剥き出しの感情という荒波から、司法という名の権威を隔離する防波堤でもあった。
しかし、今回の罪はその高い壁を根底から突き崩した。
国家の危機を招き、王都に戦火を呼び込み、数えきれぬ市民の日常と命を奪った大罪。
怒りと悲嘆に暮れる市民たちの叫びは、もはや無視できるものではなかった。
「姿を見せろ!」
「密室で勝手に決めるな!」
「俺たちの前で説明させろ!」
その猛火のような民意に、クラウディアは応えた。
会場に選ばれたのは、王都最大の大聖堂。
石造りの高い天井、色硝子から差し込む神聖な光。
祈りのための長椅子が整然と並ぶ荘厳な空間は、今、冷徹な裁きの場へと姿を変えていた。
開始当初、そこは法廷というよりは公開処刑場のような、騒乱の坩堝だった。
「死刑にしろ!」
「売国奴め!」
「俺の弟の命を返せ!」
怒号と野次が渦を巻き、裁判官の「静粛に!」という制止も、木製のガベルが石を打つ乾いた音も、激昂した群衆の耳には届かない。
──そのとき、重い青銅の扉が開き、警護兵に両脇を挟まれた女が現れた。
瞬間、燃え盛るようだった怒声が、ふっと消えた。
「被告人ニィナ・エルマン。前へ」
静まり返った聖堂に、石床を叩く足音が響く。
それは、妙に軽かった。
かつて王太子を虜にした可憐な少女の面影は、そこには微塵もなかった。
目は深く落ち窪み、瑞々しかった頬はこけ、艶やかだったオレンジブロンドの髪は乱れて、ところどころ白いものが混じっている。
10代とは到底思えぬ、色濃い老いの影が差していた。
──これが、あのニィナなのか?
憎悪で膨れ上がっていた群衆の感情が、一瞬、困惑という名の空白に変わる。
王太子を誑かし、卑怯な手で婚約者から奪った阿婆擦れ。
未来の王太子妃という地位に飽き足らず、大公国の手先となり、王国を危機に陥れた売国奴。
もはや王国で彼女の名を知らない者はいないというほどの、稀代の悪女。
どれほど婀娜な毒婦が来るかと待ち構えていた民衆の前に現れたのは、子供のように小柄で、老婆のように痩せこけた、どうかすると哀れにすら思えるような見窄らしい女だったのだ。
想像とあまりにも乖離したその姿に、彼らの“正義の鉄槌”を振り下ろす対象としての手応えが失われてしまった。
静寂が戻った聖堂に、改めて裁判の開始を告げる声が響く。
「被告人ニィナ・エルマンに対する外患誘致事件の審理を始める。名を名乗りなさい」
「……ニィナ」
「フルネームで答えなさい」
「男爵の姓など名乗りたくないわ。私は、ただのニィナよ」
ざわり、と不穏な波紋が広がる。
大観衆集まる法廷で、これほど不遜な態度を取るとは。
多くの聴衆が予想外の展開に面食らう中、続いて起訴状の朗読が始まった。
「罪名及び罰条。外患誘致罪。刑法第八十七条」
黙秘権の説明、証拠の提示、証人の予定……。
クラウディアがイアポニアの地下図書館で学んだ“公開審理”と“対審構造”。
権力者が密室で恣意的に断罪する私的裁判とは異なり、事実を積み上げ、矛盾を検証し、王族であれ貴族であれ同一の手続きで裁く。
この形式は、王国初の試みであった。
法の下の平等。
それは理想であり、同時に剥き出しの真実を晒す残酷な装置でもあった。
「先ほどの起訴内容に相違はないか」
「……」
ニィナは答えない。
裁判長は仕方なく、側にいる男に話を向けた。
「弁護人は?」
「認否は保留いたします」
続いて、検察官による冒頭陳述。
ニィナの過去が、容赦なく抉り出される。
「被告人は平民出身。幼少期より娼婦として男を堕落させ、エルマン男爵を欺き、養女となってからは、有力貴族の子息達を次々と誘惑し──」
読み上げられる罪の数々。
しかしニィナは自らの爪を見つめている。
退屈そうに。まるで他人事のように。
「王太子ユリシーズ殿下を籠絡した後、国の防衛力を削ぐ政策を進言し──」
虚空を見つめるその瞳は、もはや何も映していない。
検察官のターンが終わると、弁護人が口を開いた。
その声は穏やかで、抑制されている。
「被告人には両親がなく、幼少期より路上で物乞いをしていました。10歳を過ぎる頃には、春をひさぐことでしか生きられなかった。エルマン男爵の養女となった経緯も、生存のための必然であり──」
空気が変わった。
罵声は消え、代わりに重苦しい沈黙が落ちる。
貧困、虐待、性的搾取。
選択肢のない人生。
もし彼女が大公国に利用されただけの“駒”だったとしたら?
もし王太子がこれほどまでに愚かでなければ、防げた悲劇だったのではないか?
振り子のように揺れる観客の心が同情へと傾き始めたその瞬間、甲高い、耳を劈くような笑い声が聖堂に響き渡った。
ニィナが笑っている。
腹を抱え、肩を震わせ、涙を滲ませて。
「黙って聞いてれば……何よ。偉そうに、私を理解した気になってんじゃないわよ!」
弁護人が凍りつく。
「嘘ばっか吐くその臭い口、閉じなさいよ。私は、この国を滅ぼしたくて、自分の意思で動いたの!」
どよめき。
一度同情に触れた感情が再び怒りへ振り切れる。
正反対からの揺り戻し。
憤怒の炎は、その反動で先ほどよりも激しく燃焼していた。
「死ね!売女!」
「この悪魔め!」
ニィナは、それを嘲笑うように叫び返した。
「化け物はアンタたちよ! 今の醜い顔、鏡で見てみなさいよ!!」
群衆の目が光る。
絶対悪を断罪する快楽。
正義の名の下に石を投げる陶酔。
他人の不幸は蜜の味だ。
それが悪人の末路ならば、なおさらに甘い。
クラウディアはその光景を、大聖堂の隅から静かに見つめていた。
──そう。化け物は、ニィナだけではない。
人は皆、その心の奥底を覗き込めば、鋭い牙を持っている。
「同情なんてクソみたいなことしないでよ。ねぇ、この中に何人、アタシを買った奴がいる? 路地裏の汚いガキに石を投げたことがない奴は!?」
沈黙。
先ほどまで正義を叫んでいた者たちが、目を逸らす。
「はあ、もうウンザリ。アンタら皆、死ねよ! そんで私も死ね!」
弁護人は俯き、絶望したように首を振った。
これ以上、言葉は意味を持たない。
──誰もが息を止めて、見守る。
やがて裁判官の宣告が、石の天井へと冷たく響き渡った。
「被告人ニィナを、死刑に処す」
重い宣告。
聖堂の外ではまだ、敵を退けた祭りの余韻が微かに残っている。
だが、この神聖な場所で終わったのは、ひとりの女の命だけではなかった。
理想と正義。
そして剥き出しにされた人間の醜さが、静かに、そして残酷に切り分けられた瞬間だった。
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完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
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