第91話 風花の鎮魂歌
ゼフィロス王国の王都は、古くから風花の都という別名で呼ばれてきた。
風花とは、雲ひとつない晴天から、どこからともなく細雪が舞い落ちる現象を指す。
まるで空が大切な忘れ物をしたかのように、ひらひらと舞い降りる白い欠片。
人々はそれを、天から降る花弁に例えたのだ。
11月初旬。本来ならばまだ雪の季節には早すぎるその夜、混乱と恐怖に包まれた王都には、季節外れの風花が舞う。
白く、静かに、ひらひらと。
戦火の煙が燻る夜空の下で、その雪はまるで街の傷口を覆う祈りのように、絶え間なく降り続いていた。
クラウディアに協力した妖たちにより敵兵の大半が無力化されると、負傷した市民たちは王都の中央広場へと集められた。
城壁の影、倒壊した屋台、ひび割れた石畳――。
あちこちから、人々は互いの肩を貸し合い、怯えながらも一歩ずつ歩み寄ってくる。
広場の暗闇を照らしていたのは、街の灯明ではなかった。
提灯お化けたちである。
彼らが掲げる暖かな灯火は、ゆらゆらと揺れながら小さな太陽のように広場を包み込む。それは熱を帯びた炎ではなく、魂を安らわせる柔らかな光となって、絶望に沈む人々の顔を優しく照らし出した。
その灯りの下で、妖たちは驚くべき献身で動き回っていた。
雪女がそっと膝をつき、火傷を負った負傷者の腕に白い指を当てる。触れた瞬間、淡い霜の結晶が広がり、激しい炎症を静かに、確実に鎮めていく。
その傍らでは、雨女が大きな水瓶の上に手をかざしていた。彼女の呼びかけに応じるように、水瓶の中からは澄み切った水が絶えず湧き出す。
“手の目”が傷の具合を注意深く観察しながら、清浄な水で泥に汚れた傷口を丁寧に洗った。
その後方では、獺の医者が器用な手つきで傷の縫合を行っていた。人間の外科医を凌駕するその手際に、人々は目を見張る。
獺は小さな手で針に糸を通しながら、ぶつぶつと毒付いていた。
「ほれ、動くな。動くと縫い目が曲がる。曲がると跡が残る。跡が残ると人間はすぐ文句を言う。ったく、人間様は面倒だねぇ」
“蜘蛛息子”は、くるくると白い糸を吐き出しながら負傷者の間を歩く。彼の糸は、適度な湿度と柔軟性を保つ最高級の天然ガーゼだ。
柔らかな糸が幾重にも重ねられ、痛々しい傷口を優しく保護していく。
寒さに震える者の側には、火車が静かに腰を下ろしていた。
本来は死者を地獄へと運ぶ恐ろしい妖だが、今夜はその身体から立ち上るぬくもりが、焚き火のように周囲を温める慈悲の熱となっていた。
毛羽毛現はふわふわの毛玉のような姿で子供たちの膝に乗り、ケセランパサランは雪に混じって静かに人々の肩へと舞い落ちる。
その不思議な温もりに、泣きじゃくっていた子供が思わず顔を上げた。
「……あったかい。これ、なあに?」
広場の一角からは、甘い香りが漂い始めていた。
飲む点滴と称されるほど栄養価の高い甘酒を、新鮮なミルクで割った飲み物。
また、大きな鍋を小豆研ぎがせっせと混ぜ、“静か餅”が黙々と白玉を丸めていく。
「ぜんざい、できたよ。熱いうちに食べな」
振る舞われたぜんざいは、驚くほど優しく、身体の芯まで染み渡る味だった。
小さな白玉を噛み締めると、極寒の夜を耐え抜いた身体に、じんわりと生命の火が灯っていく。
「……妖たちが、私たちを助けてくれるなんて」
誰かがぽつりと漏らした。
何も知らなければ、人とは違う形を持った彼らは、悍ましい化け物だと忌避されていただろう。
だが人々は図鑑や物語を通して、彼らがけして理不尽に人間の害を成すものではないことを知っている。
そして今、実際に人と妖は同じ広場で、同じ雪に打たれながら、共に夜を乗り越えていた。
長い夜がようやく白み始めた頃、空を切り裂くような重い羽ばたきが聞こえた。
広場の上空を大きく旋回し、一筋の影がゆっくりと降下する。
美しい少年の妖、烏であった。
それから少し遅れて、西門から妖馬トリオに乗ったパーシヴァルが現れる。
彼の腕の中には、力なく項垂れた女の姿があった。
ニィナだ。
パーシヴァルは烏の側へたどり着くと、意識を失ったニィナを地面へと下ろした。
◇
王城の隠し通路から侵入した大公国の兵は紋女たち、鬼の精鋭によって殲滅された。
パレードに紛れ込んでいたり、森に潜んでいたりした兵士たちも、同じく予め潜伏していた妖たちの手によって、ことごとく鎮圧されていた。
人と妖、そして国の外と内が入り乱れた戦乱は、終わってみれば、あまりにも静かな結末を迎えていた。
しかし、真に不気味な幕切れは王城の地下で発見された。
騒動の翌朝、冷たい石床の上で、国王エルドリックの遺体が発見されたのである。
状況は極めて異常だった。
もし大公国の犯行であれば、手柄の証明となる王の首を持ち去らないはずがない。
更に、王を護衛していたはずの王家の影と呼ばれる黒装束たちの死体は、その場に一つも残されていなかったのである。
何より奇異だったのは、遺体の状態が凄惨を極めていたことだ。
エルドリックは単に殺されたのではない。
眼球を抉り出され、両耳を切り取られ、その口は太い糸で幾重にも縫い合わされていた。
縫い目は乱雑さの欠片もなく、むしろ奇妙な規則性を持っていた。
つまりその処置は、怒りに任せたものではなく、何かを“正そう”とする意志すら感じさせる。
それは、無言の、しかし苛烈な断罪のメッセージだった。
『民の困窮を見ようとしなかった目は要らぬ。』
『民の悲鳴を聞こうとしなかった耳は要らぬ。』
そして、『民を苦しめる言葉しか吐かなかった口など、もはや要らぬ』のだ、と。
◇
建国以来、最大と言われた王国の危機は、こうして幕を閉じた。
王都には、まだ風花が舞っている。
白く静かな雪は、この夜に失われたすべてを弔うかのように、いつまでも、いつまでも降り続いていた。
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完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
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