第90話 深淵のシンデレラ
出航した漁船の客室で、ニィナは豪華なソファに深く背を沈め、安堵の吐息と共に目を閉じていた。
膝掛けの重厚なベルベットの感触が、勝利の余韻を象徴している。
初めて見る夜の海。初めて乗る船。
凪いだ海原を、船は心地よいリズムでゆらゆらと進んでいく。
(さようなら、クソみたいな王国。せいぜい地獄を味わうがいいわ)
詰まるところ、幸せとは他人との比較で決まるものだ。
路地裏で残飯を漁りながら、表通りの屋台で親に菓子を買ってもらう子供を見たあの時、確かに私は不幸だった。
しかし皆が等しく不幸になれば、自分は不幸な子供では無くなる。
そして、この国の末路を他の場所から見下ろしたとき、やっと私は幸せになれたと思えるだろう。
ゆりかごのような揺らぎに、いつのまにか転寝をしていたニィナ。
その耳に突如、馬の嘶きが届いた。
こんな海の真ん中で馬の声が聞こえるわけがない。
夢の続きかと再び目を閉じたニィナだったが、甲板で金属が激しくぶつかり合う音に完全に目を覚ました。
重い衝撃音。怒号。兵士の悲鳴。
戦闘の音は瞬く間に近づき、客室のすぐ外まで迫っていた。
(まさか、海賊……!?)
冗談じゃない。
やっと幸せを掴もうとしているのに、こんなところで死ぬなんて。
ニィナは青ざめ、とっさにクローゼットの中へ小柄な体を潜めた。
念のために持ってきた護身用の短剣を、ボストンバッグの中から取り出す。
(……金目の物を取るだけ取ったら、あいつらは去るはず。それまで隠れていなきゃ)
客室のドアが無残に蹴破られる音がした。
クローゼットの隙間から差し込む光が遮られる。
扉が、外から荒々しく開け放たれた。
(嫌だ。死にたくない!)
せめて一矢報いようと短剣を柄から抜こうとして、ニィナは動きを止めた。
そこに立っていたのは、幼い時に憧れた騎士だったからだ。
「ニィナだな。……やっと、見つけた」
逆光の中に立つそのシルエットは、あまりに神々しかった。
あの日、泥にまみれていた私を助けてくれた、黄金の将軍――パーシヴァル。
その彼が、今またこうして海賊を倒し、絶体絶命の私を救いに来てくれた。
ニィナの胸は高鳴り、視界は歓喜の涙で潤んだ。
(私……夢を見ているの?)
差し伸べられた逞しい手。
その温もりに触れた瞬間、汚れた過去が一気に洗い流されて行く。
そう、まるで灰にまみれたボロ着が魔法でドレスに変わるシンデレラのように。
お姫様を救いに来た騎士の胸に飛び込み、すべてを委ねようとした――その、直後である。
クローゼットから一歩外へ踏み出したニィナの目に飛び込んできたのは、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
「ひっ……!?」
先ほどまでニィナを丁重にもてなしていた大公国の兵たちが、肉片と化して廊下に散らばっていた。
壁面には鮮血が幾筋も飛び散り、生温かい鉄錆の匂いが充満している。
そして、彼女を救ったはずの騎士は、白馬ではなく、悪夢から這い出したような化け物を引き連れていた。
視界の端で、馬の首が笑うように口を割って兵士の首元へと噛みつき、胴体だけの馬(首切れ馬)が血に濡れた足で死体を踏み付ける。
さらには手足が生えた奇怪な鞍(鞍野郎)が、生き残った者を押し潰し、グシャリと咀嚼するような音を立てていた。
「ああ、あ、あああ……っ!」
憧れの英雄と、悍ましい怪異。
そのあまりに強烈なコントラストに、ニィナの精神は耐えきれなかった。
パーシヴァルの逞しい腕の中で、彼女は白目を剥いて意識を手放した。
◇
パーシヴァルは気絶しているニィナを、無造作に脇に抱えて甲板へと戻った。
そこへ、夜の帳を鋭く切り裂く羽音と共に、一筋の影が舞い降りる。
月光を背負って現れたのは金髪金眼の美青年――烏であった。
「ありがとう。お陰で間に合ったよ」
パーシヴァルが短く礼を言う。
西の港へ到着した時、ニィナを乗せた船はすでに沖へ出ていた。
妖馬トリオの脚をもってしても届かぬ距離を、大人の姿となった烏とその配下が運んでくれたのだ。
「帰りも頼めるか?」
「はあ? 僕、もう十分に借りは返したと思うんだけど。この女を見つけるのだって、うちの鴉天狗を総動員したんだよ?」
「それは本当に感謝している。しかし、非常に言いにくいんだが……船員は全員、殺すか動けない状態にしてしまった。そして、俺は船の操縦法を知らない」
「……君、本当に馬鹿なの?」
「すまん」
烏は天を仰ぎ、深すぎる溜息を吐いた。
だが、このまま船と共に漂流させるわけにもいかない。
彼は観念したように、天を仰ぐ。
烏は軽く飛び上がると、パーシヴァルとニィナの2人を脚の爪で鷲掴みにし、そのまま無駄のない動きで高度を上げた。
狩りに成功した猛禽の如く、鋭い鉤爪は獲物を傷つけないように最新の注意を払いながらも、完全に固定している。
行きと同様、鴉天狗が妖馬トリオ各体それぞれ2人がかりで持ち上げていた。
烏の飛行は一糸乱れぬ翼撃で上昇気流を捉え、重力を感じさせない。
行きは焦りと不安でそれどころではなかったが、帰りはこの快適な空旅を楽しむ余裕が出てきたらしい。
鳥になった気分だと、パーシヴァルは眼下の景色に感嘆した。
「……それにしても、凄まじい筋肉だな。どうやって鍛えているんだ?」
パーシヴァルが烏の彫刻のような肉体に、純粋な疑問を口にした。
「はぁ……」
烏は呆れたように鼻を鳴らした。
「あのさ、鳥たちがどうやって空を飛んでいると思っているの?」
鳥類は、飛翔のために極限まで身体を軽量化した“進化の結晶”だ。
徹底した軽量化のために、骨の内部は空洞で、重い歯や顎、長い消化管すら排除している。
全身に張り巡らされた気嚢が浮力を助け、効率的な酸素供給を可能にする。
そこまでしても、重力に逆らい、空気を叩いて揚力を生むには、圧倒的な大胸筋が必要不可欠なのだ。
「人型の僕の骨格は人間と同じなんだ。つまり、この大きな身体を維持して、さらに君たちのような『重石』を抱えて飛ぶには、それ相応の筋肉が必要になるってワケ。僕はこんなムキムキな姿、嫌いなんだけど」
烏の美意識によれば、華奢な少年の姿こそが “空を飛ぶもの”として至高らしい。
「いいかい、追加報酬はたっぷりもらうからね?」
「ああ、約束しよう。俺の領地の屋敷に、元妻が置いていった宝飾品がある。好きなだけ持っていってくれ」
離縁の際、パーシヴァルが贈った品々だけを置いて出ていった元妻。
それを知った時、パーシヴァルは「そんなに俺が嫌いだったのか」と落ち込んだものだが、彼の絵の件を考えれば答えは明白だ。
そのアクセサリーが正視に堪えないほどの悪趣味であったからに違いない。
「……いや、やっぱり遠慮しておくよ」
光り物は好きだが、特級呪物を身につける趣味はない。
「あのさぁ、別れた女のアクセサリーを後生大事にとっておくなんて、未練たらしいと思われるよ。もう捨てるか、売るかしたらどう?」
金属や宝石単品の価値があるからおそらく売れるだろうとは思うが、造形の呪われ度合いによっては、いっそのことお焚き上げしたほうがいいかもしれない。
烏は不敵に、そして少しだけ同情を込めて微笑むと、翼に力を込めた。
遥か遠く、水平線の向こうで、王都の空が不気味な赤色に染まり始めていた。
地上の喧騒が遠のく中、冷たい夜風だけが、沈黙した騎士と妖の耳を撫でていった。
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完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




