第89話 ニィナの逃避行
王都襲撃の火蓋が切られる4時間前。
王都西に位置する小さな港町の古びた桟橋では、ニィナが軽やかな足取りで大公国の密航船へと向かっていた。
昼下がりの港は、不気味なほどに静まり返っている。
満ち潮の重苦しい匂いと、波に揺れる帆柱が「ギィ……ギィ……」と軋む音だけが、鼓膜を執拗に叩く。
ニィナが肩に下げた上質な革のボストンバッグには、王太子ユリシーズに貢がせたアクセサリーの数々と、ずっしりと重い金貨の袋が詰め込まれていた。
これだけでも、一生暮らせる富だ。
さらに今回の仕事で、大公国からは破格の報酬が約束されている。
(……勝ち、ね。私の。)
桟橋の先には、漁船に擬装された大公国の中型船が停泊していた。甲板の男が鋭い目配せを送る。
案内されて船内へ入ると、外見の粗末さからは想像もつかないほど、快適に設えられた客室が用意されていた。
肌触りの良い上質な皮のソファーに座り、ニィナは今後の暮らしに思いを馳せる。
なにしろ軍資金はたっぷりあるのだ。
どんな贅沢も許される。
(新天地では、どんなふうに暮らそうかしら。土地と奴隷を買って、優雅なスローライフも悪くないわね。)
ふと、シャンパングラスを傾けるニィナの脳裏に、封印していたはずの古い記憶が鮮烈に蘇った。
◇
あの日、王都のメインストリートは熱狂の渦の中にあった。
圧倒的不利と言われた戦況を覆し、北の帝国を退けた英雄の凱旋パレード。
路地裏に住む浮浪児だったニィナは、ただ一目その姿を拝もうと、群衆の足の間を縫って背伸びをしていた。
しかし、人波に押された彼女は、運悪くパレードの隊列の真ん前へと弾き飛ばされてしまった。
硬い石畳に膝を強かに打ち付け、痛みと恐怖で動けない。
警備の兵が「どけ、この汚いガキが!」と怒鳴り、彼女を力ずくで排除しようと手を伸ばした、その時だった。
「待て!」
場を制する、凛とした声。
見上げると、黄金の装飾を施した鎧を纏った若き将軍――パーシヴァルが、巨大な軍馬から自ら降り、ニィナの前に膝をついていた。
「怪我はないか?」
低く、けれど深い慈愛を湛えた声。
彼はためらいもなく泥まみれのニィナの手を取り、優しく立ち上がらせた。
周囲の怒号が遠のき、彼の背後から差し込む強烈な陽光が、彼を本物の救世主のように見せた。
ニィナの頭を軽く撫でると、彼は再び馬に跨り、風のように去っていった。
◇
あの日から、パーシヴァルは彼女にとって特別な存在だった。
男爵の養女となり社交界に上がったとき、今の自分なら彼の目に止まるのでは、と密かに期待に胸をときめかせたものだ。
しかしその頃には彼は負傷により自領で隠遁生活を送っていたため、再会の夢は潰えた。
(……ああ、そうだわ。大公国にお願いして、彼を捕縛してもらえばいい。そうすれば、彼は永遠に私のものになる……)
ニィナが暗い情念にまみれた未来に酔いしれていた頃、港の夜空には一羽の黒い鳥が静かに円を描き、冷徹な瞳でその様子を見下ろしていた。
波止場に向かって高い鳴き声を上げると、闇夜に無数の赤い光が灯った。
次の瞬間、ザザッと羽音がうねりを上げ、夜空が動いた。
◇
結婚披露パーティーの開始まで、あと3時間。
王都の西門付近では、ニィナの行方を見失ったまま、パーシヴァルが焦燥に駆られ居ても立っても居られない様子でいた。
その時、月明かりを弾く漆黒の羽が、風を切って目の前に舞い降りた。
「見つけたよ。西の港に停泊している、漁船に化けた工作船に乗り込んだってさ」
烏だった。
急いで来たのか、いつもは整えられた前髪がわずかに乱れている。
空の妖の長である彼は、配下の鴉天狗たちを総動員し、王都周辺の街に監視網を張っていたのだ。
かつてパーシヴァルから譲り受けた宝剣は、鬼の里への案内料としてはあまりに高価すぎた。
受けた恩には、それ以上の礼を返す。
それが妖の矜持である。
「もう出航したのか!?」
「まだだよ。でもまあ、時間の問題だろうね。戦乱の火蓋が切られる前には錨を上げるだろう」
王都から西の港までは、馬で6時間。
妖馬トリオの脚をもってしても、出航には間に合いそうにない。
「出し抜かれたか……!」
パーシヴァルは悔しげに唇を噛んだ。
ニィナを取り逃してしまえばい、王都襲撃の黒幕に繋がるキーパーソンを失うことになる。
「相手が僕たちでなければ、そうなっていただろうね」
烏が突如として眩い発光を始めた。
パーシヴァルが思わず目を細めた次の瞬間、そこに立っていたのは――パーシヴァルを凌ぐ背丈と、衣服の上からでも分かる鍛え上げられた強靭な肉体。
太陽神アポロを彷彿とさせる、輝く美貌の青年だった。
「……!? その姿は……」
乙彦の性転換や紅葉の変化の術を見てきたパーシヴァルだったが、これほど劇的な“真の姿”の顕現は初めてだった。
「こっちが本来の僕。……あ、クラウディアには内緒にしておいてくれるかな? まだしばらくは、あの姿で可愛がられたいからね」
烏は不敵に微笑み、その巨大な漆黒の翼を広げた。
「捕まってなよ、元将軍。空の旅は、馬よりも少しばかりスリルがあるからさ」
ご覧いただきありがとうございます!
完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




