第8話 惨劇の翌朝
「おはようございます、クラウディア様」
控えめなノックの後、扉が開く。銀の盆を捧げ持ったメイドが二人、そしてその後ろに給仕係と毒味役。揃って深々と頭を下げた。
窓の外は一面の白だ。昨夜、塔の足元に広がったはずの血痕は、夜半から降り続いた雪がすっかり覆い隠している。何もなかったかのように、世界は静まり返っていた。
異変に気づいた様子はない。
「おはよう」
クラウディアは、いつも通りの抑揚のない声で返す。その内側では、ジャスパーが冷や汗を流していた。
《震えるな。視線を泳がせるな。瞬きは自然に……》
つい先ほどまで鏡の前で特訓していた成果は、どうにか形になっているらしい。歩幅も、首の角度も、指先の力の抜き方も、昨夜よりは“人間らしい”。
本来なら使用人の到着はもっと早いはずだが、婚約破棄の件で心身が疲弊しているだろうという、宰相の配慮でブランチの時間に合わせての訪問となったらしい。
《ありがたい配慮だな。練習時間が稼げた》
やがてワゴンが運び込まれ、銀の蓋が順に開けられていく。
生ハムとチーズ、卵がとろりと溶け込んだ蕎麦粉のガレット。ベビーリーフとオレンジのサラダ。とろりとしたヨーグルト。湯気を立てるコーヒー。
今日は塔2階の調理場で仕上げた出来たてだという。
その瞬間、暴力的としか言いようのない香りが室内を満たした。
焦げた蕎麦粉の香ばしさ。溶けたチーズの甘い匂い。半熟卵の濃厚な気配。コーヒーの苦みを含んだ蒸気。
理性が……吹き飛ぶ……!
《な、なんだこれは……っ……》
昨夜の宝石にも匹敵する、いやそれ以上の衝撃だ。香りの波動が鼻腔の奥にある感応素子を直撃し、ジャスパーの思考回路に過電流が走った。
通常、上位貴族の食事は毒味を経てから口に入る。安全確認のため、料理は冷え切っているのが常だ。毒味を断れば不自然――それは理解している。
だが、この香りを嗅がされて、熱々の料理を前に待たされるなど、拷問以外の何物でもない。
王城付きの毒味係が一歩前に出て、皿に手を伸ばす。
その瞬間、クラウディアの指先が、空気を切り裂くような鋭さで静止を命じた。
「他の場所はいざ知らず、王城から来ていただいた貴方たちに疑いをかけるのは、王家に対する不敬になりましょう。毒味は不要ですわ」
声音はあくまで静かで、理路整然としている。
《早く食わせろ!!!》
もちろん本心はそれだけだ。
一瞬の静寂。毒味係は戸惑い、やがて恭しく一礼して下がった。
クラウディアは、立ち上る湯気をゆっくりと吸い込む。肺胞の隅々まで満たすように。それから、優雅にナイフとフォークを手に取った。
無駄のない動きでナイフが、卵の表面を割る。とろりと溢れ出す黄身は、まるで惑星の核から噴き出す溶岩のように輝いていた。
一口大に切り分けたガレットを、そっと口へ運ぶ。
熱が口内を支配した瞬間、ジャスパーの思考が一時的にフリーズした。
《ん、ぐふぅ……! う、うまい……うますぎる……!》
感覚器が、焼けるように……否、融けるように悦んでいる。
カリカリとした外皮の食感と、濃厚なチーズと卵のコク。熱は香りを引き立て、脂を溶かし、食感を際立たせる。
昨夜の冷めた料理とはまるで別物だ。
熱と香りが、クラウディアの細胞一つ一つに爆発的な活力を供給していく。
一気にかき込みたい衝動が喉元までせり上がる。
意識の外側では、長年の教育を叩き込まれた肉体が、どれほど脳が狂喜乱舞しようとも優雅な所作を崩さない。礼儀を保つよう設計された“公爵令嬢”という個体の理性は、異星の魂にとっても驚嘆に値した。
《この個体……どれほどの抑圧の中で構築されたのだ。……だが、今は感謝しよう。おかげでこの最高級のエネルギー供給を、汚らしく貪らずに済んでいる》
生ハムの塩気とチーズのコク。オレンジの酸味がサラダを軽やかにし、ヨーグルトが口内を整える。
《うぅむ、完璧だ……完璧すぎる。》
コーヒーの苦みが舌の感覚をリセットすることで、この上質な協奏曲に終止符が打たれる。
食事を終えたクラウディアは、ナプキンで口元を押さえ、給仕係へ視線を向けた。
「美味しかったわ。料理人によろしく伝えておいて」
ジャスパーの《最高だ。あと10人前持ってこい!》という思考は、喉を通る頃には淑やかな労いの言葉へ。
どうやら言語出力も、自動で“令嬢変換”がかかるらしい。
ブランチが終わると、唐突に時間が空いた。
本来であれば、朝9時から学園で授業。下校後は王城へ移動し、王太子妃教育。夕食後は宿題と自習。休日も楽器やダンスの練習、お茶会。空白など存在しなかった。
それが、今は何もない。
本来のクラウディアなら戸惑っただろう。だが、ジャスパーにとっては違う。
塔の中を歩き回り、この星の文明レベルを走査していた。騎士の鎧に使われた合金の純度。タペストリーの繊維の織密度。暖炉の構造、排気効率。見るものすべてが未知で、刺激に満ちている。
その落ち着きのなさは、傍目には奇妙なはずだった。だが使用人たちは、むしろ柔らかい目で見守っている。
「あんなことがあったのだから、無理もない……」
「氷の令嬢と呼ばれていたけれど、やはり年頃の娘なのだわ」
好意的な誤解。
それは今のクラウディアにとって、ありがたい防壁だった。
日が落ち、影が塔を侵食し始める。夕食後、塔に常駐するメイドと護衛騎士を残し、数人の使用人が帰り支度を始める。
洗濯物の籠。空になったバスケット。
そして――グラス一杯分だけ減っているワイン瓶。
残りが流しに捨てられることなく、使用人の一人が昨夜のボトルを布で包んで隠すようにバスケットの底へ沈めた。
クラウディアの瞳は、森の泉のように静かに澄んでいた。しかしその視力……いや、ジャスパーが拡張した動体感知能力はそれを見逃さなかった。
《やはりな。……痕跡の抹消。回収任務か》
敵は、クラウディアを殺したと思い、ここに確認に来た。
しかしこうしてターゲットは生きている。
そうなると、その計画が失敗したことの報告をせねばなるまい。
窓の外、雪がすべてを覆い尽くしていく。ジャスパーは、窓ガラスに映る“クラウディア”の顔をじっと見つめた。
昨夜、絶望の中で塔から身を投げた少女の面影は、もうどこにもない。
クラウディアは、ほんの僅かに眦を緩めた。それは淑女の微笑にしか見えない。だが内側では、異星の知性が冷静に状況を組み立てていた。
ハンターが、罠の周りに獲物の足跡を見つけた時のように。
――敵は、王城にあり。
ご覧いただきありがとうございます!
完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




