第9話 毒殺の黒幕
小ぶりのワイン瓶は、目立たず持ち運べることまで考えられたものだった。
王城に戻った使用人――ジャンは、夕闇のなか荷馬車から洗濯籠や空のバスケットを降ろすふりをしながら、周囲の目を盗んで素早くその瓶を懐へと滑り込ませた。
同僚たちの談笑、荷車が石畳を叩く乾いた音、そして冬特有の刺すような冷気。
ジャンは視線を伏せ、極めて自然な足取りを装って王城の裏手にある回廊へと向かった。そして人気のない角を曲がると、地下へと続く薄暗い石段へ吸い込まれるように身を隠した。
階下へ進むほど、湿った冷気が肺を刺し、城の華やかさは遠のいていく。壁の燭台は間引かれ、揺れる炎が不気味な影を奥へと伸ばしている。
ジャンは外套の下で、じっとりと嫌な汗をかいていた。懐の瓶が、まるで意思を持つ心臓のように、どくどくと不気味な熱を持って感じられた。
人目を避けるために存在するような、行き止まりの一角。重厚な木扉の前で、ジャンは小さく呼吸を整え、戸を叩いた。
コン、コン。
「ジャンです。戻りました」
軋む音と共に、扉がわずかに開く。
そこは、表向きには軍の旧備品を納める倉庫。埃を被った槍のや、錆びついた盾が並んでいた。
ジャンは数歩進んだところで、崩れ落ちるように深く頭を垂れた。
「……申し訳ありません。失敗いたしました」
その言葉が地下倉庫の澱んだ空気に溶けた瞬間、奥の闇が揺れた。
歩み寄るフードの男の足音は、死神の歩調そのものだった。静かな佇まいでありながら、周囲の温度を奪い去るような圧倒的な威圧感が男にはあった。
「どういうことだ。クラウディアはワインを飲まなかったのか」
低く抑えた声に、鋭い怒気が滲む。
ジャンは震える手で瓶を差し出した。
「飲まれた形跡はございます。一杯分は確かに減っており、グラスにも召し上がった跡がございました。……しかし」
「しかし?」
「むしろ、いつもよりお元気なご様子で。本日の食事も、驚くべき量をすべて完食なさいました。毒の影響など微塵も……」
「馬鹿な! 致死量の猛毒だぞ!」
フードの奥で、男が吐き捨てた。
王蛇の牙――それは王家に伝わる秘毒で、作り方は代々の王にしか伝えられない。
甘い白い粉で、銀食器すら欺く“究極の暗殺者”。量の加減で即死させることも、少しずつ衰弱させることもできる。致死量を摂取すれば毛細血管から内臓を焼き溶かし、体内をズタズタの廃墟に変える。
普段は宝物庫の奥の隠し扉で厳重に保管されている。
フードの男はそれをデザートワインに仕込み、昨夜の荷物に紛れ込ませた。量からして、一口啜るだけで即死。たとえすぐに吐き戻したとしても、五体満足でいられるはずがない。
「本当なのです。しかも、どういうわけか毒味を拒まれ、ワインも追加で赤白二本ずつ所望されました……」
「……は?」
だがクラウディアは、とんでもない量の食事を全て胃に納めたらしい。この状況で、まともに食べ物が喉を通るはずもないというのに。
――常軌を逸している。
「本当にあのワインを飲ませたのか?」
「は、はい! あ、でも……」
「なんだ」
ジャンは乾いた喉を鳴らした。
「確かに、あのワインをバスケットと共に置いて参りました。翌朝、確かに減ってはおりましたが……その……実際に口にする瞬間を、見たわけでは……」
空気が凍りつく。
クラウディアは毒を見抜いてすり替えたのか。それとも、暗殺を察知しながらあえて無警戒を装っているのか。
残る可能性は、一つ。
「……飲んでみろ」
「は……?」
「裏切っていないと言うのなら、そのワインを、今ここで飲んでみろ」
その一言に、ジャンの心臓が跳ね上がった。逃げ場を失った背が冷たい石壁にぶつかる。
「お、お許しください! 私は誓って裏切りなど……!」
「逆らうと、家族にも累が及ぶぞ。確か、子が生まれたばかりだったな」
その冷徹な宣告は、毒よりも確実にジャンの自由を奪った。
顔色が紙のように白くなる。ジャンは覚悟を決め、震える手で瓶の栓を抜いた。
死の香りは、驚くほど甘く、そして芳醇だった。
(クラウディア様が無事だったのなら、毒は偽物だったのではないか。)
そんな一縷の希望に縋り、彼は一口、それを含んだ。
ぶはっ――!
直後、ジャンの視界が真っ赤に染まった。
喉から胃袋へ、沸騰した鉄を流し込まれたような激痛。叫ぼうとした口からは、声の代わりに粘り気のある黒い血の塊が溢れ出す。
床に転がり、喉を掻き毟る。指先が石畳を削り、剥がれた爪から血が滲む。
やがて、短く激しい痙攣が止み、ジャンは動かなくなった。
その凄惨な死を、フードの男は実験結果を確認する科学者のような、無関心な目で見下ろしていた。
「ふん。毒は本物だったようだな」
忠実な家臣を一人葬ったというのに、声に悼む色は微塵もない。
「片付けろ」
背後の闇が、ぬるりと動いた。黒装束を纏った男たちが現れる。
王家の影――暗殺、隠蔽、諜報を専門とする部隊。
「血やワインに直接触れるな。皮膚が焼け爛れるぞ」
男の警告に、死体へ手を伸ばしかけていた一人が慌てて手を引っ込める。
死体は手際よく厚い布で幾重にも巻かれ、床に散った血と毒液も徹底的に拭い取られた。やがて大きな麻袋に収められたそれは、ただの荷物として運び出されていく。このまま火にくべれば、死体も毒も、この世から跡形もなく消え去る。
「次の手は?」
黒装束のなかで最も年嵩と思われる男に問いかける。
「現在、クラウディア様の周囲には複数の使用人が派遣され、交代で監視しております。昨夜のような好機は、しばらく訪れないでしょう」
「……で、あるか」
フードの男は小さく舌打ちした。
毒殺が防がれた以上、事故か自殺に見せかけるのは困難を極める。
「はぁ……全く、馬鹿なことをしてくれたものだ」
誰に向けたものか分からぬ呟きを残し、フードの男は踵を返した。
「執務室へ戻る」
重厚な扉が閉じる。
地下倉庫には、何事もなかったかのような、冷たく湿った静寂だけが戻った。
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完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
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