第86話 ソーニャと水晶の龍
ソーニャがおずおずと歩み寄るにつれ、乙彦の濁りきっていた虹彩に、鮮やかな青の滴を落としたような光が差し始めた。
虚ろだった瞳孔が、愛しい者の姿を捉え、生命の輝きを宿していく。
「……ソー、ニャ?」
「はい」
「……どないしたん? そんな哀しい顔して」
見上げる海面には、不吉な軍艦の影が無数に落ち、平和な海底を黒く汚している。
一刻を争う事態だと分かっているのに、ソーニャの喉は激しく震え、言葉がせき止められた。
これほどまでに自分を慈しみ、純粋な愛を注いでくれた人に対して、自分は利用しようという打算を持ってここに来た。
その醜い事実が、彼女の胸を鋭い楔のように貫き、激しい羞恥と罪悪感で満たした。
「申し訳ありません……っ」
ソーニャは深く、絞り出すように頭を下げた。
(帰ろう。澪様の仰った通りだわ……)
妖を、神を、人間の勝手な都合に巻き込んではいけない。
ましてや、こんなにも純粋な心をくれた人を。
「何か困ってるんやね…? 話、聞かせてくれへん?」
「本当に……何でもありませんから…」
どうして、この人はこんな自分を気にかけてくれるのだろう。
自分を“餌”にすれば言うことを聞いてくれるかもしれない、などと考えた自分が、あまりに浅ましく思えた。
後退りするソーニャの手を、乙彦は振り解けるほど優しく、けれど拒ませない強さで掴み、東屋のカウチの隣へと座らせた。
「ほら…」
至近距離で深青の瞳に見つめられた瞬間、ソーニャの張り詰めていた意識がふわりと解けた。
堰を切ったように、言葉が零れ落ちる。
王都の危機。迫り来る大公国の艦隊。
そして、かつての自分のように親を失うかもしれない子供たちの未来。
「……そうやったんやね」
乙彦は静かに、すべてを包み込むように頷いた。
「ソーニャはどうして欲しいん?」
「……助けて、ください…」
絞り出した願い。
「私の持っているものは、すべて捧げます。心も、身体も、命も。だから、お願い……助けて」
乙彦はしばらく無言で彼女を見つめていた。
海底の静寂が二人を包む。
そして「うん。分かった」と、触れ合いそうな距離で視線を合わせたまま、彼は言った。
「お願いは聞くよ。でも、うちは神や。代償が必要やで。……覚悟は?」
「はい。できています」
「即答とは殊勝なことやね」
乙彦は、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「――ほな、うちが男になりたくなるようなこと、してもええ?」
「……はい」
自分の体一つで多くの命が救われるなら。
ソーニャは静かに覚悟を決め、睫毛を震わせて目を伏せた。
「髪に触れても?」
返事を待たず、乙彦の指がソーニャの前髪を優しく掻き分ける。
スローモーションのように、信じられないほど美しい顔が近づいてくる。
覚悟を持ってぎゅっと目を閉じたソーニャの顔を、しばし愛おしげに眺めて、優しく頬を撫でる乙彦。
そして、唇が触れる。
だが、それは唇ではなく、彼女の額だった。
慈しむように頬を両手で包み、名残惜しげにゆっくりと顔が、そして腕が離れていく。
初手は想像していた“代償”ではなかった。
いつ次の攻撃が来るのかと、そのままの姿勢で体を固くていたソーニャだったが、待てども待てども、何も起こらない。
戸惑いながら恐る恐る目を開けると、そこには美麗な顔をだらしなく歪めた乙彦がいた。
「んふふぅ。チュウしてしもたぁ~! こんなん、もう、結婚やん~!」
そのまま「んふんふ」と身悶えしながら両腕で自分を抱きしめ、くるくると1人でダンスを踊るように廻る。
その瞬間、海宮のすべての灯火が爆発するように再点灯した。
ハレーションの中で、乙彦の身体が変貌していく。
背が伸び、肩幅が広がり、喉仏が男らしく突き出す。
先ほどまでの奇行が嘘のような、凛々しい男性の姿で乙彦は振り返った。
「ソーニャ、もう安心してええよ。うちに任せて、ね?」
中庭に縦横に巡らせた堀は海につながる水路。
そのうちの一つに飛び込んだ乙彦は、泳ぎながら今度はその姿を巨大な龍へと変えた。
水晶の龍。
海宮の光を反射する鱗は、ダイヤモンドの砕片を散りばめたように輝き、天へ昇るように海面へと消えていった。
「なんて、綺麗……」
現実とは思えないほど神々しいその光景に目を奪われたソーニャは海面を見上げたまま、動けなくなった。
◇
海面は鏡のように凪いでいた。
満月の光が波に砕け、昼間のような明るさの中、大公国の旗を翻す艦隊の前に、突如として巨大な影が落とされた。
「悪いことは言わへん。このまま回れ右して、おうちにお帰り」
上空から降ってきた朗らかな、しかし絶対的な声。
甲板の兵士たちは、月を背に舞う宝石の龍を仰ぎ見、腰を抜かした。
「う、打てぇぇ! 撃ち落とせッ!!」
指揮官の悲鳴のような号令。
訳もわからないまま、本能的な恐怖で攻撃を開始しようとする兵士たち。
砲撃のためにガレオン船が旋回し、横腹の砲台を晒す。
だが、水平射撃用の大砲は空高く舞う乙彦には届かない。
「交渉決裂、やね」
龍がトグロを巻くように体を丸めた瞬間、晴天は一転した。
墨を流したような黒雲が月を隠し、太鼓の乱打のような大粒の雨が甲板を叩く。
激しい落雷がマストを焼き、積乱雲の中心で乙彦が旋回を始めると、海面に巨大な竜巻が発生した。
「ほんま、堪忍なぁ」
狂ったような荒波が船を弄び、甲板にいた船員の何人かが振り落とされた。
慌てて帆を下ろすが、それでも船の揺れは収まるはずもない。
ガレオン船は速度が出る他、荷物や大砲が多く積めるという特性から、軍用船として重用されていたが、安定性に乏しいという欠点があった。
つまり、嵐に対して弱い船だ。
先頭の艦が抗う術もなく転覆し、海の藻屑と消える。
後方の船は、もはや指揮官の命を待たず、恐怖に駆られて反転し逃げ出した。
20隻を越す船隊は瞬く間に瓦解した。
◇
「奥様。お茶が入りましたのでこちらへどうぞ」
いつの間にか、傍らに女童が控えていた。
しかしソーニャは小さく首を振り、拒んだ。
彼女の瞳は、頭上で繰り広げられる“龍と嵐の舞”に釘付けになっていた。
やがてルネがゲートを通って迎えに来ても、彼女はその場を動こうとはしなかった。
自分を信じ、救ってくれた、あの水晶の輝きをいつまでもその目に焼き付けておくために。
ご覧いただきありがとうございます!
完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




