第85話 再びの海宮
大広間を制圧し、文字通りの“血の祝宴”を終えた後、クラウディアと石蕗は、未だ混迷を極める城内へと姿を消した。
逃走した国王エルドリックの捕獲と、抵抗を続ける大公国軍の掃討。
静まり返った広間には、むせ返るような鉄錆の匂いが澱んでいる。
ルネとソーニャは、縛り上げた敵兵の呻き声を背に、窓の外を見つめていた。
視界の先、王都の夜空は不気味なまでの朱に焼けている。
遠く地平から響くのは、金属がぶつかり合う剣戟の音。そして腹に響く重苦しい砲声。
平和を謳歌していたはずの市街地は今、妖と大公国の軍勢が入り乱れる、泥沼の攻防戦へと変貌していた。
ソーニャは胸の前で祈るように指を組み、震える吐息を漏らす。
その時、窓を叩く夜風に混じり、細い、あまりに細い囁きが彼女の鼓膜を震わせた。
それは人の言葉ではない。
風にそよぐ若草が擦れ合うような、微かな震え。
――木霊たちの急報。
「……っ!」
ソーニャの顔から血の気が引いた。木霊が伝えてきたのは、南沿岸の異変。
大公国の海軍の到着を知らせる急報だ。
南岸から王都近くまでを繋ぐ運河がある。海から運河に、もし大公国の艦隊が侵入すればどうなるか。
それは、無防備な王都の喉元に、巨大な抜身の刃を突きつけられるに等しい。
城壁は艦砲射撃で容易く砕かれ、精鋭の兵が雪崩れ込み、王都は一瞬で屠殺場と化すだろう。
ジェノサイド、略奪、蹂躙。
死者の日に、本物の地獄がこの世に顕現しようとしていた。
ソーニャは弾かれたように振り返り、ルネの元へ駆け寄った。
「ルネ様、今すぐに海宮へのゲートを開いてください!」
「え、ちょ、ソーニャちゃん!? 急にどうしたの」
普段は無感情な彼女からは想像もつかない、切迫した叫び。
ルネはその瞳に宿る真実の恐怖を見て、言葉を失った。
「お願いです。このままでは、すべてが……手遅れになります」
必死に木霊の告げた危急を説明するソーニャ。
だが、ルネは即座に頷くことができなかった。
この局面を覆すには、水神・乙彦の力が必要だ。
しかし、そのためには――この少女を人身御供として差し出すことになるのではないか。
ルネの心に、苦い葛藤が渦巻く。
「……分かった」
長い沈黙の後、ルネは絞り出すように言った。
「でも、決して一人で早まらないで。クラウディア様たちが戻ったら、すぐに後を追うから!」
捕虜の見張りのため、今は2人で行くわけにはいかない。ルネは苦渋の決断で、ソーニャだけを送り出すことにした。
空間に光の亀裂が走り、渦を巻いた煙の中に門が口を開く。
「気をつけて」
「はい。……行ってまいります」
ソーニャは深く頭を下げると、躊躇なく光の中へと身を投じた。
移送された先は、あの懐かしい桟橋の上だった。海宮へと続く、神秘の入口。
しかし、かつて迎えてくれた案内の子供たちの姿は、どこにもない。
静まり返った桟橋には、ただ重く、暗い波の音だけが「ザザッ……」と不吉に響いている。
見上げる海は、かつての透明感を失い、鉛のように澱んでいた。
再び海宮の中へ足を踏み入れたソーニャは、思わず息を止めた。
華やかな宴の面影もなく、並べられたテーブルは空っぽのまま放置されている。何より、宮殿を彩っていたはずの灯火が、ことごとく消え失せていた。
豪奢を極めた海底の城は、今や数百年もの間、神に忘れ去られた廃墟のような静寂に支配されている。
ソーニャの履く靴の音だけが、広い廊下に虚しくこだました。
「……乙彦様?」
返事はない。彼女は記憶の糸を手繰り寄せ、薄暗い回廊を歩き出した。
あの日、乙彦が優しく手を引き、案内してくれた場所。
地上の美しい花を、時間を止めて閉じ込めたクリスタルの柱。
澄み渡る真水に満たされた水槽。
しかし今は光を失い、灰色に透けた珊瑚の林が佇んでいるのみ。
そして――ルネがスケッチを描いたあの東屋。
そこに、彼はいた。
水辺のカウチに力なく座り、一枚の絵を凝視している。
かつては生命の輝きを放っていた池の水は、今や泥のように濁り、不気味に静止していた。
乙彦の眼前に置かれていたのは――清廉な花を背景に、肩を寄せ合う二人を描いた、ルネの絵。
「……お、乙彦様……?」
震える声で呼びかけると、ゆっくりと首が巡らされた。
だが、振り返った乙彦の瞳は、底知れぬ泥に沈んだかのように濁りきっていた。
焦点はどこにも結ばれず、目の前に立つソーニャの姿さえ、その視界には届いていないようだった。
絶望、あるいは完全なる虚無。
乙彦は、その孤独の深淵で、独り壊れようとしていた。
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完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




