第82話 宵闇のダンス
逃した魚の大きさに気付いたユリシーズは、ニィナに裏切られた時以上の衝撃に打ちのめされた。
誇りも、虚勢も、王族としての矜持も、すべてが音を立てて崩れ去り、彼の理性の箍は無残に外れた。
「なんで……嘘だ……そんなはずはない。お前は、僕の影のように後ろを歩くはずの……ずっと、僕のものだったはずだ……ッ!」
諸外国の賓客を前に、栗色の巻毛をぐしゃぐしゃと掻きむしりながら、声を荒げる。
その姿には、次期国王としての威厳など微塵も残っていない。
現実逃避しながら取り乱す哀れな男の姿に、周囲の貴族たちは冷ややかな顔を見合わせた。
不敬と知りながらも、堪えきれぬ嘲笑が「クスクス」と毒のように広間に漏れ出す。
「……お前たち……この僕に向かって……黙れ! 黙れッ!」
顔を真っ赤に染め、唇を戦慄かせる。
羞恥と怒りで肩を震わせる様は、もはや王族というより、玩具を取り上げられた子供の癇癪だった。
それを冷徹な一瞥で切り捨てたクラウディアは、もはや言葉を交わす価値すらなしとばかりに、優雅に踵を返した。
「待て! 逃げるな!」
ユリシーズが我を忘れ、その白い背中に汚れた手を伸ばし、掴みかかろうと踏み出した瞬間――。
入場以来、影のようにクラウディアに寄り添っていた“美形の鬼” 石蕗が、静かに、しかし絶対的な壁となって一歩前に出た。
――圧倒的な、質量の差。
高身長のクラウディアがさらに高下駄を履いているというのに、石蕗の頭頂はなお遥か高みにあった。
168cmの痩躯であるユリシーズに対し、2m近い長身と、鎧のように硬質な筋肉を宿した石蕗。
それは大人と赤子、あるいは獅子と鼠ほどの絶望的な差であった。
そして、真上から見下ろす石蕗の瞳には、一切の慈悲がない。
ユリシーズは喉を鳴らし、その圧に気圧されて思わず視線を逸らした。
石蕗が発する圧は、どんな罵倒よりも雄弁にユリシーズの矮小さを浮き彫りにした。
見かねた国王エルドリックが、威を正して口を開きかけるが――
「人の王よ。無粋ではないでしょうか」
石蕗の重低音の響きが、広間の空気を震わせて制した。
「現世と幽世の境界が溶け合う今宵。鬼の王たる私と、宵闇の女王のダンスを邪魔なさらぬよう」
石蕗は、恭しくも堂々とした所作でクラウディアの手を取った。
楽団が気を利かせたのか、あるいは何かに操られたのか、まるで示し合わせたかのように、ゆったりとした、しかし力強いワルツが流れ始める。
石蕗のリードは、峻烈にして華麗だった。
その大きな掌がクラウディアの細い腰を支え、導き、流れるような円を描く。
岩のような肉体でありながら、その動きには寸分の狂いもない重心移動と、獣のようなしなやかさが宿っていた。
クラウディアは重力から解き放たれたかのように、音楽の波にその身を委ねる。
黒と緋色の着物が翻り、漆黒の髪がシャンデリアの輝きを散らして瞬く様は、まさに夜空を舞う星の瞬き。
蝶が舞うように軽やかに。
鳥が羽ばたくように力強く。
そして毒を孕んだ花が甘く誘うように。
二人の踊りは、もはや舞踏会の余興ではなかった。
それは、古い時代を葬り去るための儀式。
貴族たちは踊ることも忘れ、呼吸さえ止めて、その残酷なまでに美しい幻想を見つめ続けた。
それは、一夜限りの夢――。
だが、最後の一音が消え切るか否かの刹那。
王族専用の重厚な扉が、不吉な音を立てて撥ね開けられた。
そこから現れたのは、抜身の剣を提げた20名ほどの武装集団。その軍服の紋章は、ゼフィロス王国のものではない。
大公国の、侵略の牙だ。
「近衛兵! 出あえッ!」
異変に気づいたエルドリックが叫ぶが、応じる足音はない。
室内の警護は霧のように消え、外から飛び込んでくる兵士もいない。
―― 謀られた。
悟った瞬間には、すべてが遅すぎた。
王族の証であるボルドー色のマントは、格好の標的となる。
敵は王家専用の扉から現れたということは、つまり、城の心臓部はすでに敵の手中にあるということだ。
死の予感が広間を支配した次の瞬間、数人の黒装束の集団が音もなく現れ、エルドリックを取り囲んだ。
王家の影だ。
「よく来た。ワシを退避させよ」
「ユリシーズ様は?」
「捨ておけ。あんな馬鹿でも、時間を稼ぐ囮くらいにはなる」
エルドリックの即断は冷酷だった。
自分さえ生き延びれば、国は再建できる。
彼は息子を一瞥もせず、黒装束に守られて隠し通路へと消えた。
一国の王が自分だけそそくさと逃げる。
その無様な背中を止める者は、誰もいなかった。
取り残されたユリシーズは、膝から力なく崩れ落ちる。
剣の訓練を怠け続けた彼に、実戦の覚悟などあろうはずもない。
英雄王と称えられた建国の祖が見れば、嘆き伏すであろう貧弱な末裔。
彼は戦う構えすら取れず、ただ震えることしかできなかった。
遅れて事態を理解した淑女たちの悲鳴が、阿鼻叫喚となって響き渡る。
敵兵が勝ち誇ったように剣を抜き、嘲笑を浮かべてじりじりと距離を詰める。
祝宴が血宴へと変わる、その瞬間――。
「……ガッ、……!?」
先頭の兵の一人が、喉を潰されたような鈍い声を漏らして倒れ伏した。
その首には、深々と一本の釘のようなものが突き刺さっている。
それは――先ほどまで異界の佳人の髪を飾っていた、藤の花の簪であった。




