第77話 鬼の米
秋の空気は水晶のように澄み渡り、夏よりもずっと空が高くなる。
どこまでも抜けるような蒼穹が広がり、筆で引いたような白い雲がゆったりと流れていく。
昼間はまだ名残の暑さを感じるものの、湿気が引いた分だけ風は羽のように軽い。
乾いた風が吹き渡るたび、稲穂がさざ波となって揺れた。
陽光を受けてきらめくその様は、大地そのものが溢れんばかりの“金の海”に変わったかのようだ。
大公国による食糧買い占めで、王国中が飢えの予感に震えている今、イアポニアでは、通常の倍以上の作付けが、見事な黄金の成果を上げていた。
見渡す限り輝く海原の中で、鬼たちが弾むような声を上げ、収穫に勤しんでいる。
手にした稲穂は、茎が気の毒になるほどずっしりと実っていた。
一粒一粒が艶やかでふっくらと張り、指で撫でればしゃらりと珠が触れ合うような心地よい音を立てる。
「半信半疑だったんだけど、試してみて良かったよ。おクラちゃん、ありがとね」
紋女にガシガシと豪快に頭を撫でられ、クラウディアは少しだけ目を細め、照れくさそうに笑った。
石灰を混ぜて土壌の酸度を調整。
苗をある程度まで育ててから田へ移す“移植法”。
株間を等間隔に取り、風と光の通り道を確保。
そして“合鴨農法”――水田に放たれた合鴨が雑草や害虫を食み、その糞が滋養豊かな肥料となる循環。
それらひとつひとつは、地下図書館から得た知識による地味な工夫の積み重ねだ。
だが、先人の知恵と妖たちの強靭な力が合わさった時、それは例年の10倍に迫る大豊作という奇跡となって結実した。
「先人の知恵というのは、実に素晴らしいものでございますね」
傍らで桔梗が静かに頷く。
薙刀で鍛え上げたその体捌きは、鎌の柄を自らの腕の延長のように自在に操っていた。
ぶおん、と低く風を裂く音。
桔梗は匠の里で特注したデスサイズを軽々と振るい、瞬く間に一反分の稲を刈り取っていく。
三日月のように長く鋭い刃は青白く冴え、陽光を反射して一瞬きらりと閃く。
本来、死神が命を刈り取るための不吉な得物とされるそれも、今の彼女にとっては命を繋ぐ糧を収穫するための最高の道具だ。
小鎌で腰を屈めて作業するのは、高齢の桔梗には酷だろうとクラウディアが贈ったものだったが、薙刀の達人である彼女にはこれ以上ない「エモノ」だったらしい。
舞うように一閃すれば、扇状に広がった稲が根元から一息に倒れ伏す。
その姿は戦場の猛将のようでありながら、どこか洗練された優雅さを纏っていた。
刈り取られた稲を拾い、束ねるのは子供たちの役目だ。
「そっち、遅いぞー!」
「うるさいわね! 今すぐ追いつくから見てなさい!」
小さな手で藁を揃え、器用に結んでいく。
遊びの延長のような競い合いと笑い声が、金色の田に絶え間なく響いた。
「新しい脱穀機を入れて正解だったな」
作業を手伝っていたパーシヴァルが、籾が積み上がる音を聞きながら感心したように言った。
クラウディアが匠の里に発注したのは足踏み脱穀機。
ペダルを踏むと針金の歯が高速回転し、そこへ稲穂を当てれば籾がパラパラと面白いくらいに落ちる。
従来の千歯扱きよりも格段に効率が良く、何より作業者の負担が少ない。
残った藁や籾殻はし尿と混ぜ、堆肥にする。
好気性微生物の働きでじっくりと発酵・分解させれば、やがてそれは黒々とした栄養豊かな土へと生まれ変わる。
稲に捨てるところなどない。
穂は食料に。
藁は屋根や縄に。
殻は燃料や肥料に。
それは、命を無駄なく循環させる、この世で最も尊い営みだった。
「それじゃあ、次は『地獄蒸し』だ!」
石蕗が、働いた後のご褒美を待ちかねていた子供たちに声をかけた。
秋の恵みは米だけではない。
南瓜、薩摩芋、里芋、人参、牛蒡。
太陽と大地の力を凝縮した色とりどりの野菜。
鬼の里の近くには、一面が赤く染まった“血の池地獄”と呼ばれる温泉がある。
地下深くから噴き出す熱泥が池を染めるその異様な景観とは裏腹に、そこから立ち昇る蒸気は天の恵みだった。
高温の蒸気を利用し、食材をざるに乗せて一気に蒸し上げる“地獄蒸し釜”。
微かな塩分を含む蒸気が素材の旨味を閉じ込め、野菜を芯からホクホクに仕上げる。
「できたぞーッ!」
蓋を開ければ、白煙とともに甘い香りが爆発した。
南瓜は鮮やかな橙色に、芋は黄金色に輝き、今にも崩れそうなほど柔らかい。
そして、炊き立ての新米。
一粒一粒が立ち、銀シャリとなって輝いている。ひと口頬張れば、暴力的なまでの甘みと香りが鼻に抜けた。
子供たちは歓声を上げ、鬼たちは樽の酒を開けて豪快に笑う。
黄金の稲穂が揺れる秋空の下。
労働の後の宴は、これから来るであろう戦乱の予感を束の間忘れさせるほど、優しく、そして甘美だった。
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