第72話 水神と人柱
夕闇が迫る時刻になっても、神社の境内はまだざわめいていた。
妖会議は終わったというのに、彼らは帰る気配を微塵も見せない。
空の妖は社の屋根で翼を休めながら議論を戦わせ、陸の妖たちはリァマの街の観光について花を咲かせている。
クラウディアは集まってくれた彼らを労うべく、屋敷の大広間で宴会を催すことに決めた。
次々と宴席へ向かう妖たちの流れに逆らい、1人の影が境内を後にする。
乙彦の名代、磯姫の澪だ。
濡れそぼった長い黒髪は月光を受けて青白く発光しながら揺れ、彼女が歩く後には、微かに潮の匂いが残っていた。
澪は海へと通じる川を目指していたが、その背中に声が掛かった。
「……もう、お帰りになるのですか」
振り返ると、そこに立っていたのはソーニャだった。
真珠色の髪が夜風に揺れている。
澪は濡れた瞳を細め、あからさまな敵意を隠そうともせずに睨みつけた。
「なんや。人間の小娘か……うちになんか用?」
露骨なまでの拒絶。ソーニャは言葉に詰まった。
なぜ、彼女を追いかけてきたのか、自分でも分からなかったからだ。
押し黙って俯くソーニャに、澪は苛立ちを隠さず畳み掛ける。
「止めに来たんやったら無駄やで。人間がどれだけ残酷で、貪欲で、愚かか、うちはよう知っとる。水の妖は人間同士の争いになんか興味ない。好きに殺し合えばええねん!」
海の底のように冷え切った、突き放す声。
それでもソーニャは顔を上げた。
「だからこそ……罪もない子供が不幸になるようなことは避けたいのです。なんとか、考え直してもらえませんか」
澪は、即答した。
「嫌や」
けんもほろろ。
あまりにもあっさりとした拒絶だった。
「人間は、最初こそ綺麗なことを言う。でもな、いざ自分の命が懸かるとすぐ裏切るんや。アンタは、どこまで本気なんやろうなぁ」
澪は、ぞっとするような笑みを浮かべた。唇だけが吊り上がり、目はまったく笑っていない。
「……『人柱』って、知ってるか?」
夜風が一瞬、止まった気がした。
「ここイアポニアではな、神様にお願いするには相応の代償が必要やねんで。乙彦様は水神や。もし、あのお方に何かお願いしたいんなら……」
一呼吸分の沈黙。
月が雲に隠れ、2人の影が闇に沈む。
「――アンタの命、差し出しや」
その言葉に、ソーニャは少しも動じなかった。
むしろ、当然の理を受け入れるように、静かに頷いた。
「こんな私で良ければ喜んで、贄となりましょう」
覚悟を決めた、というような清々しい顔ではない。
命を惜しむ気配が、そもそも存在しないのだ。
自分に価値がないと思っているからこそ、いとも容易く差し出せる。
ソーニャの瞳の奥には、深い虚があった。
澄んでいて、そして真っ直ぐに歪んでいる。
澪はしばらく黙ってその虚を見つめていたが、ふっと鼻で笑った。
「……ふぅん。そうか」
そして唐突に、ソーニャの全身を値踏みするように眺め回す。
「あんたが、ソーニャやな? ……なんや、ぜーんぜん大したことないやん!」
初対面のはずの妖に名前を呼ばれ、ソーニャは目を見開いた。
「安心したわ。これならうちの方が百万倍きれいや」
長い黒髪をかき上げながら高らかに宣言した澪は、確かにこの世のものとは思えない美しさだった。
人間を魅了し、魂さえ吸い込みそうな妖艶さ。
「貴女は……その……乙彦様の」
「そうや。番や」
澪は胸を張った。
「だからもう、あんたなんて、お呼びやないねん」
ソーニャは少し驚いた顔をした後、一瞬だけ目を伏せ、ふっと息を吐いた。
「そうですか……良かった」
「……はぁ?!」
澪の眉が跳ね上がる。
「なんや、それ、負け惜しみ?」
ソーニャは静かに「いいえ」と首を振った。
「乙彦様が幸せなら、それで……私には、何も出来ませんから」
澪の顔から、薄い笑みが消えた。
「……嘘や」
「え」
「うちが番とか、嘘に決まっとるやろ。ちょっと何、なんで簡単に信じるわけ?! 乙彦様がそんな不誠実やと思てたんか?」
激昂したかと思うと、澪の勢いは急にしぼんだ。
肩が小さく震えている。顔を隠す長い髪の隙間から、涙が零れているように見えた。
「乙彦様はな……乙彦様は今、海宮で……あの暗い、濁った海で……」
声が掠れ、言葉が途切れる。
そこまで言って、澪は突然頭を振った。
「あー、もう、知らへん。なんで私が教えてやらなあかんねん! ……もう……もうもうもうっ!」
先程までの妖艶さはどこへやら、澪は幼い子供のように、地団駄を踏まんばかりにキレ散らかしている。
「何よ。この地味根暗ブス! ブス! ぶすぶす、ぶぅーすっ!!」
吐き捨てるように言い放つと、澪はタイトな着物の裾を華麗に捌き、全速力で川へ身を踊らす。
夜の水面は、ちゃぷんと小さな音を立て、静かに波紋を広げた。
あっけに取られたソーニャは、しばしその場に佇んでいた。
(え……今、ブスって……)
ブスと言われたのは、人生で初めてだった。
この老婆のように白い髪と、血のように赤い目のせいで、悪魔の子、幽霊、化け物。
そう呼ばれたことは数えきれない。
だが、それ以外の容姿にまで他人の関心が及ぶことはなかった。
だから、初めて普通の人と同じように扱われた気がした。
それは、決して嫌な気持ちではなかった。
だが。
ざわり、とソーニャの心の中に何かが広がった。
腹の奥が熱い。もどかしい痛み。
それは容姿を貶められたからではなかった。
(乙彦様も乙彦様よ。あんな人を、自分の名代になんか……)
ソーニャは思わず歯を食いしばる。
胸の奥がちくりと痛む。
(なぜ、あんな……あんな、綺麗な人を、わざわざ……)
悔しい。
――そうか。私、今、悔しいんだ。
悪魔でも幽霊でもなく――ブス。
つまりは女の土俵で、一方的に負けを宣告されたのだ。
あまりにも子供じみた言動ではあったが、実のところ澪の怒りにも理由があった。
人魚姫の寓話は、水の妖の特徴を非常によく表している。
水の妖は、純真に、一途に、ただ一人を命懸けで恋慕う。
それは祝福でもあり、呪いでもあった。
一度想えば、その想いは決して薄れない。
水が岩を削るように、永い年月をかけても、ただ同じ方向へ流れ続ける。
乙彦もまた、そういう存在だった。
彼は、番と定めたソーニャに想いを寄せている。たとえ届かなくとも、彼女の心が別の誰かに向いていたとしても。
堰き止められた水は、やがて濁り、澱み、命を失う。
今――海宮は、まさにその状態だった。
かつては青く透き通り、光に満ちていた海の宮殿。
白亜の宮殿。揺れる海藻の庭。無数の魚が舞う、光の回廊。
それらすべてが今は、暗い水に沈んでいる。
その中心で、乙彦はただ一人――深い海の底で、眠るように目を閉じている。
想いを押し殺した代償として、水神である彼自身が、水の流れを止めてしまったから。
それを澪は知っている。
だからこそ、腹が立つのだ。
「……ほんま、馬鹿やで」
川の底へと潜りながら、澪は小さく呟いた。
水の妖は涙を見せない。
シュリーレン現象で周りの水が陽炎のように、ただゆらめくだけ。




