第65話 新酒の宴
鬼の里の冬は深い。
静まり返った酒蔵の中、吐く息の白さと、微かに漂う発酵の甘い香りが混じり合っていた。
蔵の中央、漆黒の仕込み樽を前に、泰山が櫂を手に仁王立ちしている。
「よく見ておけ、石蕗」
泰山がゆっくりと櫂を回すと、水面に柔らかな波紋が広がる。
「酒造りはな、一麹、二酛、三造りだ。今やっているのはその二に当たる、酒母……酵母を育てる工程だ」
樽の中には蒸し米、麹、水、そして生命の源たる酵母。
「厳密な温度管理のもと、約1ヶ月かけて酵母を培養する。余計な雑菌を寄せ付けず、酒の骨格を作る大事な時期だ」
「1ヶ月も……それで、ようやくお酒になるのか?」
石蕗の問いに、泰山は鋭い視線を向けた。
「終わるわけがなかろう。これでやっと下ごしらえが終わったに過ぎん」
「ええぇっ!?」
背後で作業していた蔵人たちが、石蕗の情けない声にドッと沸いた。
「この途方もない手間暇が、イアポニアのポンシュに、鬼をも酔わせる強い酒精と深い味わいを与えるのだ」
泰山は櫂を止め、酒造りの真髄を語り始めた。
米の酒は、世界の他の酒と比べても極めて特殊な構造を持つ。
ワインは果実の糖をそのまま発酵させ、ビールは糖化と発酵を別々の工程で行う。
だが、ポンシュは一つのタンクの中で、麹菌がデンプンを糖に変える糖化と、酵母が糖をアルコールに変える発酵を同時に、かつ緻密なバランスで行う。
「これを並行複発酵という」
泰山の声が、低く重く響く。
「高効率で発酵が続くため、醸造酒としては異例のアルコール度数を叩き出す。原酒ならば20度に達することもある」
次は醪造りだ。
一度に全ての材料を入れず、初添、仲添、留添と、4日間かけて3回に分けて仕込む三段仕込み。
「一気に入れれば酸が薄まり、雑菌に隙を与える。一歩ずつ、酵母の勢力を広げていくのだ。…… 櫂を合わせろ!」
泰山の号令に、鬼たちが一斉に櫂を動かす。
ざぶ、ざぶ――
重厚な水音が、蔵の奥へと響いていく。
「手応えを覚えろ。温度、粘り、香り……すべてが『酒の声』だ。それを聞き漏らすな」
ぶく、ぶく。
醪が、生き物のように呼吸を始める。
やがて蔵の中は、芳醇な香りで満ちていった。
――1ヶ月後。
発酵を終えた醪を布袋に入れ、重力だけで滴らせる袋吊りが行われた。
ぽたりと滴り落ちたのは、月光のように澄み、米の旨味を凝縮した真珠の雫。
「搾らないままのものを『どぶろく』。濾過せず澱を残したものを『濁り酒』。そして火入れをせず、搾りたての鮮度を保つのが『生酒』。仕上げで見た目も味わいも全くの別物になる。どれもがイアポニアの宝よ」
蔵の軒先には、新酒の完成を告げる瑞々しい緑の杉玉が吊るされた。
やがてそれは、夏に淡く、秋には枯れた茶色へと変わる。
杉玉の色は、そのまま酒の熟成のバロメーターなのだ。
その夜。
新酒を祝う宴席に招かれ、クラウディアが鬼の里を訪れていた。
「今年も里が無事でありますように! 乾杯ッ!」
鬼たちの豪快な笑い声が、山々に木霊する。
卓には、多種多様な肴が並んでいた。
燻した香りとチーズのコクが絶妙な、いぶりがっことクリームチーズ。
香ばしい蕎麦の素揚げ。
そして、湯気を上げるおでん。
クラウディアは江戸切子のグラスに注がれた澄んだ酒を一口含む。
「……美味しい。強いけれど、どこか懐かしくて優しいお味ですわ」
「さあさあ、鬼をも殺す辛口の原酒ですよ。たんとお召し上がりくださいな!」
桔梗が升の中にグラスを置き、なみなみと酒を注ぐ。
“もっきり”だ。
艶やかな黒髪を耳にかけ、表面張力ぎりぎりまで満たされたグラスに、ゆっくりと口を寄せる。
その色気のある仕草に、鬼たちの視線が一斉に集まった――その瞬間。
クラウディアは、グラスの酒と升の中の酒をまとめて一息に飲み干した。
どよめきが、弾ける。
アルコール度数20%の酒を一合、一気飲みするその酒豪ぶりに、周囲が騒然となる。
「鬼の嫁御にぴったりでございます!」
桔梗は目を輝かせ、嬉々としておかわりを注いだ。




