第64話 鬼の剣
翌朝、麹室の戸を開けた瞬間、ほの甘く、栗にも似た香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
白い菌糸をまとった麹は、夜のあいだに静かに息づき、粒と粒がくっついて、板のように硬く締まっている。
石蕗は両手を差し入れ、そっとその塊を割った。
ぱきり、と小気味よい音と共に、湯気がゆるやかに立ちのぼる。
「熱を持ち始めている。頃合いだ」
泰山の低く響く独白。
切り返しの作業は、単なる攪拌ではない。
麹の機嫌を伺うように指先でほぐし、空気を含ませる。
山を崩し、混ぜ、再び一定の厚みに盛る。
表面積を調整し、麹菌がもっとも心地よく増殖する温度を保つのだ。
やがて発熱が盛んになると、再び積層を広げて熱を逃がし、酸素を与える。
麹は生き物であり、呼吸をしている。
数時間後、品温は40〜43度で安定し、室内は白い息のような蒸気に包まれた。
「温度計を見るな。五感で覚えろ」
泰山は麹をひとつまみ取り、香りを確かめる。
若草のような青い匂いが抜け、甘くふくらみのある芳香へと変わっていく。
「酒造りは一期一会だ。米の状態、菌の機嫌、その日の湿度……同じ日は二度とない。だから、マニュアルは通用せん」
ふと、泰山が視線を落とした。
「儂ももう年だ……万一のことがないとも限らん。その前に、お前にすべてを伝えておきたい」
常に峻厳な背中を見せてきた父の口からふいに漏れた、老いの影。
不器用な息子である石蕗は、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
酒造りには時間がかかる。
製麹ののち、酒母造りに1ヶ月、醪発酵にさらに1ヶ月。
クラウディアやソーニャたちは仕事のためリァマへと戻ったが、泰山の強い勧めでパーシヴァルは里に残ることとなった。
「貴殿さえ良ければ、儂の技も学んでいくといい」
渓谷と海で他領・他国と隔絶された自然の要塞イアポニアにいる限り、クラウディアの身に急な危険が及ぶ可能性は低い。
一流の武人である泰山から直接、異国の武道を学べる機会を、パーシヴァルは一も二もなく快諾した。
もちろん「働かざる者食うべからず」の精神で、石蕗と共に酒蔵の重労働をこなしながらの修行である。
「腕が下がっている! 隙だらけだぞ!」
稽古が始まれば昨夜の弱々しさはどこへやら、泰山は竹刀を振り、雷鳴のような怒号を浴びせる。
「次、構え!」
剣道において、構えは城であると喩えられるとおり、正しい構えが全ての基本となる。
ただ形を真似るのではない。
身構えと心構えが一致して初めて、攻防は一体となる。
五行の構え(上段・中段・下段・八相・脇構え)。
中段一つとっても、正眼、青眼、晴眼、星眼、臍眼の五種類。
剣先のわずかな角度の違いが、攻めの圧にも守りの厚みにもなる。
パーシヴァルは、豊富な実戦経験と勘の良さから、それらを吸収するのが驚くほど早かった。
打ち合いが始まれば、重い踏み込みから鋭い突きへと流れる動きは一切の淀みがない。
読みと間合いの妙に、泰山の弟子の鬼たちも息を呑む。
「……始めようか」
「胸をお借りします」
泰山との打ち合いは、単なる稽古の範疇を超えていた。
かつて大陸の戦場を血で染め、王国の守護神と謳われたパーシヴァル。
イアポニアのあらゆる武道に通じ、その身を捧げてきた泰山。
刹那――空気が爆ぜた。
踏み込みの一歩で、武道場の床板が悲鳴を上げる。
泰山の動きは、まさに動く岩壁だった。
無駄のない最短距離を通り、小柄な体から重戦車のような圧力がパーシヴァルを襲う。
木刀がぶつかり合うたび、雷鳴のような衝撃音が響き、見学していた鬼の若衆たちが思わず後退りした。
「重い……!」
パーシヴァルは、その剛剣を力で受け流さない。
イアポニアの武術で学んだ円の動き――刃を滑らせ、相手の力をそのまま虚空へと逃がした。
直後、鋭い突きが泰山の喉元を掠める。
「ほう……。王国の剣に、剣道の技を混ぜたか」
泰山が不敵に口角を上げる。
そこからは、もはや言葉のいらない対話だった。
剛と柔。静と動。
二人の達人が織りなす攻防は、もはや武道ではなく、完成された芸術のようだった。
「……アニキ、すげぇ……」
石蕗は、瞬きすることさえ忘れてその光景を凝視していた。
パーシヴァルの剣には、これまでの泥臭い実戦経験に加えて、泰山から教わった心の平穏が宿り始めている。
一方で泰山もまた、パーシヴァルの変幻自在な動きに触発され、眠っていた闘争本能を研ぎ澄ませていた。
やがて、互いの剣先が喉元数センチの地点でぴたりと止まる。
静寂。
激しい立ち回りの後とは思えないほど、清々しい空気が流れていた。
「……参ったな。これ以上は、道場を壊さねば決着がつかん」
泰山が先に木刀を引くと、パーシヴァルも深く一礼して応えた。
見守っていた鬼たちから、地鳴りのような歓声が上がる。
「次は俺とも手合わせを!」
「抜け駆けすんな!」
「ちょっと! 俺のアニキだぞ!」
石蕗の嫉妬をよそに、パーシヴァルは満更でもない様子だ。
力任せに武器を振るう鬼たちにとって、大剣で甲冑を叩き割る力強さと、空隙を突く繊細さを併せ持っているパーシヴァルの戦い方は最高の教科書だった。
さらに、鬼をも凌駕する益荒男ぶりに、里の女たちも色めき立つ。
いつしか道場の縁側は、彼をひと目見ようとする見物人で鈴なりとなった。
「俺のアニキなのにぃ……!」
石蕗の嘆きも虚しく、恋も武道も、強敵がいてこそ磨かれる。
欲しいものは力づくでも奪う――。
情と熱に生きる鬼たちの猛攻を前に、石蕗の守りの技は、皮肉にも日ごとに冴え渡っていくのだった。




