第62話 花祭翌日
花祭の夜が明けた。
舞庭の屋根から差し込む朝の光は、熱狂を濾過したあとのように淡く、徹夜で燃え続けた竈の灰からは、行き場を失った白い煙が細く立ちのぼっている。
つい昨夜まで異界の門が開いていたかのような場所は、今や嵐が去った後の海辺のように静まり返っていた。
床に散乱した五色の紙片――“切り透かし”の残骸だけが、人と妖の狂乱の宴の跡として、そこかしこにへばりついている。
屋敷の縁側では、パーシヴァルが湯呑みを手に、ぼんやりと庭を眺めていた。
普段は隙のない彼も、今日は結い髪を緩め、祭りの毒気が抜けきらぬ物憂げな佇まいを見せている。
「……静かですね」
背後から涼やかな声。
振り向くと、そこにはクラウディアが立っていた。
重厚な花太夫の装束を脱ぎ捨て、簡素な着物に着替えてはいるが、その双眸にはまだ祭りの熱が澱のように沈んでいる。
「皆、死んだように寝ているのでしょう。あれだけ騒げば、当然です」
パーシヴァルは自嘲気味に笑った。
昨夜の舞庭は、もはや戦場だった。
湯囃子の蒸気に当てられて意識を飛ばした者、八百万の神に魅入られて踊り明かした者、成就した恋に浮かれる者、そして失恋の痛手を酒で洗う者。
祭りの後の朝というのは、残酷なほどに穏やかな時間だ。
クラウディアは、吸い寄せられるように彼の隣へ腰を下ろした。
しばらくの間、二人は言葉を交わさない。ただ、風が軒先の紙飾りを「カサリ」と揺らす音だけが、その場に落ちていた。
「昨日は……その、失礼いたしました。」
「何がです?」
「……途中で、無様に退場してしまったこと。領主として、最後まで見届けるべきでしたのに…。」
その謝罪があまりに真剣だったため、パーシヴァルは吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
まさか、倒れた理由が熱波でも疲労でもなく、「眼前に迫る雄っぱいの質量に脳がショートしたから」だとは、誇り高きレディである彼女の口からは一生語られることはないだろう。
「気にすることはありません。……むしろ、あそこで貴女が引いてくれて助かりましたよ。」
「……え?」
「もしあのまま続いていたら、俺と石蕗は、どちらかが倒れるまで引き下がらない勝負に発展していたでしょうから。」
その言い方に誇張はない。
彼にとっては、ただ事実を述べているだけだった。
パーシヴァルが珍しく悪戯っぽく目を細める。
クラウディアがぱちぱちと瞬きをしたその時、廊下の奥から重い足音が響いた。
「……ふわぁ、もう起きてたのか。二人とも元気だな。」
石蕗だった。
生来の癖毛は寝癖で爆発し、肩には鬼の舞の激しさを物語る包帯。
鬼の舞と湯囃子の全力投球により、全身から疲労感が漂っている。
だが、その姿を視界に入れた瞬間。
クラウディアの脳裏に、昨夜の“熱波”の光景がフラッシュバックした。
黄金色に光る汗。爆ぜる蒸気。
そして、視界を埋め尽くした――。
(だめ、思い出しては…)
「……っ!」
クラウディアの顔が、火を噴くように赤く染まった。
石蕗は不思議そうに首を傾げる。
「どうかした? 顔が妙に赤いんだけど」
「な、な、な、何でもありませんわ!!」
クラウディアは弾かれたように視線を逸らした。だが、逸らした先にはパーシヴァルの胸元がある。
彼の緩んだ装束の隙間に、昨夜のふっくらとした弾力の記憶が重なり――。
「………。 」
沈黙が痛い。
パーシヴァルは口元を手で覆い、肩を小刻みに震わせている。
彼は気づいているのだ。彼女の視線がどこを彷徨い、何を思い出して茹だっているのかを。
事情を飲み込めない石蕗だけが、二人を交互に見つめ、眉を寄せた。
「……ごめん。俺、何か嫌われるようなことした?」
「してません! 決して! 何も! してませんわ!」
クラウディアの全否定が、余計に怪しさを加速させる。
「昨日、途中で倒れただろ。本当に大丈夫? 医者を呼ぼうか?」
石蕗が心配して一歩近づくと、クラウディアは短い悲鳴を飲み込んで一歩下がった。
朝の陽光が庭の隅々まで広がり、祭りの幻想を現実に書き換えていく。
クラウディアは深呼吸をし、無理やり領主の仮面を被り直した。
「……食事にしましょう。日吉がもう用意してくれているはずです」
花太夫の役割は終わった。
けれど、領主としての日常が戻ってきたばかりである。
パーシヴァルと石蕗が、示し合わせたように並んで歩き出す。
その背中に、昨夜の“丘陵地帯”を幻視したクラウディアの足が、再びぴたりと止まった。
それを見届けたパーシヴァルが、ついに堪えきれず盛大に吹き出した。
花祭の翌日。
イアポニアの空気は、まだしばらくの間、奇妙な熱を帯びたままだった。
――誰一人として、昨夜と同じ距離には戻れていないまま。




