第61話 花祭当日
祭り当日の朝。花太夫であるクラウディアは、まだ深い霧が眠る早朝の森を抜け、街外れの隠し滝へと向かった。
夜の冷気を孕んだ空気は剃刀のように鋭く、吐く息が白く立ちのぼる。
滝壺から舞い上がる水煙の中、彼女は柄杓を捧げ持ち、静かに膝を折った。
「どうか、この地にお越しください」
そう小さく唱えてから、清冽な水を汲み上げる。
それは八百万の神々をこの世に繋ぎ止めるための依り代となる聖水だ。
朝日を反射し銀色に輝く水桶を抱え、彼女は花宿の中心である屋敷へ戻った。
屋敷の神部屋には、各地から献上された美酒が所狭しと並んでいた。
鬼の里の濁酒、人里の澄んだ清酒、山の霊が愛する芳醇な薬草酒。
神官役の古妖が祝詞を唱え、クラウディアが捧げた清水が酒杯へと注がれる。
「遠き天より、近き地より、神々よ、この宿に降り給え」
目に見えぬ気が屋敷を満たし、祭りの幕が静かに上がった。
◇
秋の日は釣瓶落とし。
日が暮れ、舞庭は押し寄せた人と妖の熱気で飽和状態にあった。
中央の巨大な釜の下、竈の炎が唸りを上げる。
最初の“楽の舞”が夜空に溶け、続いて“市の舞”。
伝統装束に身を包んだパーシヴァルが、一歩、舞台へ進み出る。
始まったのは、舞というよりは“美しき演武”だった。
指先まで神経が行き届いた所作は、鋭い剣筋のように空気を切り裂く。踏み込む足音は地を震わせ、翻る袖が風を切る音さえもが猛々しい。
静止した瞬間は、獲物を前にした獅子の凄みを放ち、動き出した瞬間の爆発力は、稲妻が大地を走るかのよう。
観客は息を呑み、誰もがその凛とした“静”と、爆発的な“動”の完璧な調和に、魂を奪われたように見入った。
さらに泰山との“地固めの舞”では、2人の武芸者が同時に床板を強く踏み鳴らす。
ドォン、と腹に響く重低音。大地に力を刻み込むようなその轟きは、神々への力強い捧げ物となり、八百万の神々もまた、満足げに目を細めたに違いない。
その後は、子供たちの愛らしい舞。
そして真打ちである山見鬼、榊鬼の激しい舞へと続く。
赤い装束を纏い、巨大な鉞を手にした石蕗が登場すると、観客のボルテージは最高潮に達した。
石蕗の舞は、パーシヴァルの洗練されたそれとは対照的な、迸る野性だ。
地を這うような低い姿勢から、天を衝くような大跳躍。
伴鬼を引き連れ、炎の周りを乱舞するその姿は、荒ぶる鬼神そのものだった。
「テーホヘ! テホへ!」
笛の音を模した掛け声が渦を巻き、火の粉が舞う。
人も妖も、降りてきた神々さえもが入り乱れ、舞庭のボルテージは臨界点に達しようとしていた。
そして、ついにその時が来た。
花祭で最も盛り上がるカップルイベント、“湯囃子”の始まりである。
観客の参加が許され、釜の周りには想い人に気持ちを伝えようとする者たちが陣取り始める。
男と女のペアだけではない。
女と女、男と男、妖と妖、妖と人。
地下図書館の司書の2人もいる。雨女から雪女への求愛とあって、蒸気で溶けないかどうか心配だ。
クラウディアは儀式の進行役として端に控えていたが、このイベントの真の意味までは理解していなかった。
なぜ皆、こんなに殺気立った、それでいて艶っぽい視線を交わしているのか。
その横顔を、石蕗がちらちらと盗み見る。
何度か口を開きかけ、閉じ。
ついに意を決した。
「お、おクラち──」
しかし、最後まで言い切る前に、クラウディアの姿が視界から消えた。
パーシヴァルが無言で彼女の手を引き、舞庭のど真ん中、釜の直近へと連れ出したのだ。
彼はそこで無造作に装束をはだけ、鍛え上げられた上半身を晒した。
「そこにいて下さい」
釜の石に、朝汲んだ清水がかけられる。
ジュワッと、一瞬で蒸気が爆発するように立ち上った。
「待って!」
追いかけてきた石蕗も負けじと諸肌脱ぎになり、二人の“雄”がクラウディアを挟んで並び立った。
汗に濡れて黄金色に輝く筋肉の山。浮き上がる血管、躍動する広背筋。
会場からは割れんばかりの歓声が上がった。
だが、その中心にいたクラウディアの意識は、全く別の次元へと吹き飛ばされていた。
(これが……薔薇本にあった、例の……雄っぱい……!)
禁断の知識が、この極限状態でリンクした。
目の前で重力に従い、弾む4つの肉の塊。
パーシヴァルのそれは、大理石のような滑らかさと弾力を持つ完熟の果実。
対する石蕗のそれは、鋼のような硬度と攻撃的な張りを見せる野生の岩壁。
(ある……確実に、私よりも、質量がある……!)
クラウディアはそっと自らの胸に手を当てる。
この慎ましやかな膨らみに比べ、目の前の双丘×2は圧倒的な暴力となって迫りくる。
彼らがバッサバッサと湯たぶさを振り、熱波を送るたびに、視界を覆う大胸筋がプルプルと波打ち、彼女の正気を削り取っていく。
「……むり……」
蒸気の熱さか、それともこの視覚的な暴力のせいか。
顔を茹で上がった蛸のように真っ赤にし、クラウディアはついにノックアウト。
這々の体で舞庭の外へと逃げ出した。
ターゲットを失った男2人は、呆然と顔を見合わせた。
数秒の沈黙の後、どちらからともなく吹き出し、互いの健闘を讃えて肩を組んだ。
熱情の渦から離れ、2人の男の間には妙な友情が芽生えていた。
◇
祭りの締めくくりは、神送りの“朝鬼の舞”。
熱狂の残滓が、まだ空気に漂っている中、石蕗が再び舞庭に立った。
呼吸が深く、視線が落ち着いている。手にした槌が、静かに持ち上げられる。
カン、カン――――まるで時を刻むように。狂いのない間隔で乾いた音が響く。
地へ。空へ。そして、見えない神々へ。
境界を守り、場を閉じる、“送り手”としての鬼。
夜の熱が、ゆっくりと解けていく。
高ぶった感情が、静かに沈んでいく。
観客たちは知らず、呼吸を合わせていた。
神々よ、どうかまた来年も。
祈りを込めて、霜月の夜はゆっくりと明けていった。




