第5話 悪夢の夜
月の無い闇夜だった。
低く垂れこめた雲が天を覆い、周囲の森は墨を流したように深い黒に沈んでいる。風が木々の梢を渡るたび、湿った枝葉が擦れ合い、まるで死者が密談しているかのような囁き声を立てた。
その闇はただの光の欠如ではない。森そのものが呼吸を潜め、外界の一切を拒絶しているかのような静寂がそこにはあった。
広大な森に、塔以外の建造物は見当たらない。
石を無骨に積み上げた円筒状の塔が、夜の帳の中で一本の巨大な影の柱となって聳え立っている。
そうした人目のない場所であったことが、救いだった。
もし誰かが今の光景を目撃していたなら――それは一生逃れることのできない、悪夢の光景となっていただろう。
血塗れの夜着を纏った女が、あり得ない方向へ折れ曲がった手足で、ヨタつきながら歩く様は。
下手な演者が操るマリオネットのように、クラウディアの両手足はバラバラに、そして無機質に動く。
右足が前に出ると同時に、左腕が背後へと跳ねる。次の瞬間には膝が内側へ折れ、骨の位置がずれたまま足首だけが強引に地面を踏みしめる。関節は本来の可動域を無視し、不自然な角度で停止したかと思えば、急にバネのように弾け飛ぶ。
そこには筋肉の連携も、神経の秩序も存在しない。ただ移動という結果だけが、無理やり成立させられていた。
眼球は焦点を持たず、ぐるりと白目を剥いたかと思えば、左右で別々の方向を向く。右の目は虚空を追い、左の目は無慈悲に地面を舐める。首は進行方向とは逆にねじ曲がり、外れた顎はだらりと垂れ下がっていた。
それは、皮膚一枚だけで辛うじて繋がった肉の塊に過ぎなかった。
前は見えていないはずだった。だが、その異形は迷うことなく塔の入り口へと辿り着く。
もはや視覚など必要としていなかった。
周囲の温度差。空気のわずかな流れ。地面を伝わる微細な振動。夜気の中に漂う湿度の濃淡。宿主の皮膚の下に広げられた感覚器が、世界を恐ろしいほどの解像度で立体的に把握している。
人間の感覚が点で世界を捉えるのに対し、ジャスパーは空間そのものを“面”として読み取っていた。
石積みの塔は古いが、頑健だった。苔むした壁には長い年月の風雪が刻まれているが、構造そのものはびくともしていない。
かつて物見の塔として作られたこの場所に、扉は一つ。窓は最上階に一つ。厚みのある木の扉には、外側から重い錠がかけられている。
鳥でもない限り、決して外へは出られぬ仕様だ。
クラウディアの姿をした“それ”は、自らの手で首をコキリと元の位置へ戻した。骨が嵌まる乾いた音が、静寂の中に響く。
そのまま、開け放たれた最上階の窓を見上げた。
窓は夜空にぽっかりと開いた、四角い穴のように見えた。
《なるほど。この体の持ち主は、あそこから飛び降りたのか》
当然の結果としての、死。
本来であれば翌朝、野犬に喰い荒らされた哀れな遺体が発見されるはずだった。
――この通りすがりの異星人、ジャスパーとの邂逅がなければ。
ジャスパーは、窓からの侵入は聊かエネルギー消費が激しいと判断し、目の前の扉の鍵穴に人差し指を差し入れた。
少女の指がいくら細くとも中まで入るわけはない。しかし、その指先から透明な粘液が滲み出し、鍵穴を瞬時に充填していく。粘液は内部の凹凸を精緻に写し取り、鋳型となって硬化した。
カチリ。
引き抜いた指先には、凍りついたような透明の鍵が形成されていた。
扉を開けて中に入り、再び内側から鍵を使って錠を下ろす。用を済むと、透明の鍵はすぐさま形を崩し、再びクラウディアの指先へと吸い込まれていった。
裸足の足に、石造りの床の冷たさが刃のように突き刺さる。だが、その苦痛さえジャスパーにとっては単なる温度データの一つに過ぎない。
灯りのない塔の内部を、センサーだけで把握して最上階へと上がる。
そこには先程とは一転、暖炉の残火と燭台が、部屋を柔らかな光で満たしていた。
雪が吹き込む窓を閉じると、室内は密閉された居心地の良い空間となった。
《まずは、この服を何とかしねぇとな》
メイドの手を借りずとも、記憶の断片を辿れば脱ぎ方は分かる。クラウディアの脳内には、彼女の全人生のログが日常生活の細部に至るまで残されていた。
朱に染まった夜着を脱ぎ捨て、水に濡らしたナフキンで髪と体を清める。そして暖炉の中で蛇の舌のようにシュルシュルと踊る炎に、血で汚れた衣服とナフキンを放り込んだ。
布は黒く縮み、煙を上げて灰に変わる。これで、証拠はすべて隠滅された。
ジャスパーはそのまま、壁に備え付けられた姿見の前に立ち、クラウディアの裸体を観察した。
《……なんて貧相な体だ》
婚約者ユリシーズの好みに合わせるため、成長を嫌って食事を極限まで減らしていた少女。
鏡に映るのは、十七歳という年齢に相応しい肉付きを欠いた、痛々しいほど痩せた胴体と細長い手足。肋骨は浮き、鎖骨は刃のように尖っている。脂肪もなければ、まともな筋肉もない。
《宿主の健康維持が目下、最大の課題のようだな》
ジャスパーはゆっくりと腕を持ち上げ、不自由な指先を曲げ伸ばししてみる。
関節はぎこちなく、出力はあまりに低い。この脆弱な“乗り物”では、この惑星での生存効率が極めて悪い。
暖炉の火が、ぱちりと弾けた。
その乾いた音を聞きながら、異星の寄生体は静かに思考を巡らせていた。
“クラウディア”という空殻を使い、この星で生き延びるための――最初の課題を。
ご覧いただきありがとうございます!
完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




