第58話 コロポックル救出
森の奥深く、竹の秘密基地で子供たちと過ごしていたクラウディアの耳に、それは唐突に届いた。
ザワザワと木の葉が擦れ合う音に混じり、物理的な音波を超えた“指向性”を持つ震え。
木霊たちの声だ。
山の神ククノチノカミの眷属である彼らは、巨大なブロッコリーを思わせるモコモコした姿で、幹の陰や枝先にひっそりと生えている。
彼らに個の意思はない。
ただ、森の神経系として、誰かの言葉を中継し、増幅し、伝播させる特性を持つ。
今、クラウディアの耳に届いたのは、悲鳴のような声だった。
『……タスケテ……ナガ……サレル……』
途切れ途切れの声は、木霊から木霊へとバトンを渡され、森全体を震わせていた。
「みんな、梯子を下ろして! 手分けして声を辿るわよ!」
1体、2体、3体。
木霊たちの点を線で結び、音の“上流”を割り出す。
「川だわ……!」
確信を得た瞬間、クラウディアの脚は動いていた。
「ここで待ってて!」
子供達に言い残すと、山の悪路をものともしないスピードで駆け抜ける。
シダの葉を払い、湿った黒土を蹴立てて、彼女は咆哮を上げる川岸へと飛び出した。
昨夜の豪雨を飲み込んだ山川は、普段の清廉さをかなぐり捨て、泥を孕んだ茶褐色の獣と化していた。
その濁流の中、中洲の岩に引っかかった蕗の葉の船が見える。葉の上では、小さな、あまりに小さな影が必死に縁にしがみついていた。
手のひらに乗るほど小さな妖、コロポックルだ。
山の水が急激に増し、彼らは操船の限界を超えたのだろう。中洲へ逃れることもできず、かといって川へ戻れば一瞬で呑まれる。
蕗の葉の船は、今にも裏返りそうなほど危うく揺れていた。
「待ってて! 今、助けるから!」
クラウディアは迷わず激流へ足を踏み入れた。
水深は腰ほど。だが、水の重さが違う。
泥を含んだ奔流は、想像を絶する力で彼女の華奢な体を押し流そうとする。
川底の砂利に足を取られ、10月の山の水が、骨の芯まで凍てつかせるナイフとなって体温を削り取っていく。
あと数メートル。
指先が、震えるコロポックルに届かない。
視界が白く濁り、歯の根がガチガチと鳴り響いたその時。
「クラウディア!!」
背後で激しい水音が爆ぜた。
下流へと拐われかけていた彼女の身体を、巨大な“壁”が支える。
子供たちから知らせを受けて駆けつけたパーシヴァルだった。
彼はクラウディアと激流の間に割って入り、盾となって水の勢いを殺した。
「パーシ……」
「……黙って、俺に掴まっていてください」
怒気すら感じさせる低い声。
パーシヴァルは彼女を片腕で強く抱き寄せると、岩のように動かぬ足取りで一歩ずつ、確実に中洲へと歩を進めた。
ようやく届いた手が、小さなコロポックルを救い上げる。役割を終えた蕗の葉は、そのまま濁流の彼方へと消えていった。
岸へ戻った瞬間、濡れた着物が鉛のように重く肌に張り付いた。
極限の緊張が解け、クラウディアは一歩も動けぬほど震え出す。すると次の瞬間、視界がふわりと浮いた。
パーシヴァルはいわゆる“お姫様抱っこ”でそのまま屋敷へと走り出す。
「……もう」
吐息とともにこぼれた声。
「本当に、貴女は無茶ばかり……」
言葉がそこで途切れ、続きは最後まで紡がれなかった。
だが、腕に込められた力だけが、すべてを語っていた。
耳のすぐ横で、彼の心臓が太鼓のように打ち鳴らされているのが分かる。
その烈しい鼓動が、冷え切った彼女の心臓を無理やり動かしているような気がした。
◇
屋敷では、知らせを受けた日吉が、すでに戦場のような手際で櫓炬燵を用意していた。
炭団が、静かに、けれど粘り強く熱を放っている。
濡れた衣類を替え、温かい炬燵へ潜り込む。
毛布に包まれたコロポックルが無事であることを確認し、クラウディアはやっと深く息を吐いた。
今回の救出劇は、単なる幸運に過ぎない。
イアポニアは豊かだが、山が多く、雨も多い。
川は恵みの血管であると同時に、牙を剥く災害の源流でもある。
(……治水が必要だわ)
地下図書館でスキャンした知識が、脳内で急速に組み上がっていく。
堤防、水路、水門の制御。
ふと、王都の南にある巨大な古代運河の遺構を思い出す。
あれは単なる船の通り道ではなかったはずだ。増水時の逃げ場(放水路)として機能し、水を飼い慣らしていたのではないか。
イアポニアを真に発展させるためには、この荒ぶる水を御さなければならない。




