第52話 妖保育園
海宮から戻ったクラウディアを待っていたのは、平穏という名の贅沢な退屈だった。
彼女はほどなくして、屋敷の地下図書館に眠る膨大な蔵書をすべて読破してしまった。
妖の種類と特性。イアポニアの過酷な地理。火山帯、地震、地殻変動――この大陸がどのようにして形作られたのかという地質学的歴史。
さらには、失われたはずの古代文明が遺した叡智の断片。
物理学、化学、生物学、天文学。それらを応用した工学や医学。さらには経済学、心理学、社会学、理論計算機科学、植物分子生理学……。
一冊一冊、丁寧にページをめくる。
ジャスパーの特性ゆえに、一度網膜に映した文字や図式はすべて正確に記録されていく。復習も反芻も必要ない。
つまり――全てを読み終えた瞬間に、彼女は世界一博識な暇人となった。
そして、その知識を使う場面は、今のところ一切なかった。
イアポニアの統治は、依然として執事イブリムが完璧な差配で回しているため、領主であるクラウディアに回ってくる実務は、決済の印を押す程度しかない。
王都の貴族なら喜んで遊んで暮らすところだが、ここは違う。
“ 働かざる者食うべからず”が鉄則。勤勉さや忍耐が尊ばれる地。
妖たちも皆、己の特性を活かした仕事に精を出している。
そんな中、日がな一日、屋台を眺めながらぶらぶらするクラウディアの姿を見つけた妖たちが、遠慮なく“雑務”を持ち込んできた。
「暇ならこれ、お願いね」
「ちょっと子供見ててくれない?」
「この子、今日は元気余ってるから」
結果、雑務の最終形態として、領主の屋敷は妖の子供たちの臨時保育所と化したのである。
◇
♪かってうれしい はないちもんめ
まけてくやしい はないちもんめ♪
リァマの屋敷の庭に、澄んだ童声が弾む。
晩夏の陽射しを受けてきらめく芝生の上では、種族も背丈もばらばらな妖の子供たちが輪を作っていた。
その中心で、誰よりも真剣な顔をして走り回っているのが、臨時保育所の責任者――クラウディア先生(自称)である。
「ちょっと待って、今のは作戦会議ありだからね! ずるじゃないから!」
抗議の声は必死そのもの。
もはや保育士というより、負けず嫌いな最年長の園生だ。
ジャスパーの種族は分裂で増殖する。
つまり、最初から成体であり、幼少期というものが存在しない。
ジャスパーがクラウディアの記憶を漁っても、そこにあるのは王城での孤独な英才教育の断片ばかり。同年代と泥にまみれて遊んだ記憶など皆無。
ゆえに彼女は妖の子供たちにイアポニアの遊びを教わることにした。
しかし、多種多様な能力を持つ妖の子らは手強い。
鬼の子は人間の数倍の腕力を持ち、狐の子は物理法則を無視して逃げ回る。
河童にいたっては水場では無敵だ。
身体能力が勝負の遊びでは、各個の能力差で勝負にならない。
しかも鬼の子が提案した鬼ごっこは、本物の鬼が相手なので洒落にならなかった。
「いってぇ! ちょっと、力を加減しろよ!」
「……ごめん」
鬼の子がタッチした拍子に、人間の子供が勢いよく吹っ飛ばされた。
その一件をもって即座に、遊びの主流は“頭脳戦”や“運”の要素が強いものへと移行する。
はないちもんめ。かごめかごめ。とおりゃんせ。陣取り。輪投げ。だるま落とし。おはじき。
「ちょっと! 今、後出ししたでしょ!」
「してないってば!」
気づけば、一番ムキになって子供相手に叫んでいるのはクラウディアだった。
体は大人、中身は子供。どこぞの名探偵とは真逆の現象が、そこにはあった。
せっかくなので、学びの時間も設けることにした。
読み聞かせの時間、圧倒的な人気を誇るのは石蕗だ。
物語の配役に合わせて声色を自在に変える彼の語りに、子供たちは瞬く間に引き込まれる。
膝に小狐を乗せて読んでいれば、その場所を巡って喧嘩が始まる。
すると石蕗は、困ったように笑いながら、肩や腕にも子供を止まらせた。
その姿は、まるで小鳥を枝に乗せる、慈愛に満ちた大樹のようだった。
一方、お絵描きの時間。
当然、芸術家であるルネが主役かと思いきや、一番子供たちに囲まれているのは、軍神パーシヴァルだった。
子供たちは笑い声を上げ、何やら紙を覗き込んで大騒ぎしている。
「おクラちゃん。ごめん。後、お願い…!」
ルネが、見たこともないほど顔を真っ赤にし、口に手を当てて前屈みになりながら部屋を飛び出していった。
急病かと心配しながら、クラウディアはお絵描き班へ向かう。
しかしパーシヴァルの手元を覗き込んだ途端、それは吹き飛んだ。
そこには――カンブリア紀の奇天烈な古生物ハルキゲニアをさらに禍々しくしたような、異形のナニカが描かれていた。
細長い胴体から生える無数の棘。
顔と思しき場所から蠢く6本の触手。
5本の足はすべて違う物理法則に従っているような歪な曲線。
「……パーシヴァル卿、あの……これは…?」
《なんて悍ましい生き物だ。生物学の範疇を超えてる…!》
地下図書館のどの資料にも載っていない未知のクリーチャー。
このような恐ろしい妖が近くにいるのかと、クラウディアは震える声で尋ねた。
「……犬です」
「い……ぬ……?」
落ち着け。まだ慌てる時間じゃない。
犬の妖とか、そういう可能性もある。
「コタロウです」
真顔で、一点の曇りもない声で、そう言い切るパーシヴァル。
コタロウという名前に該当する犬は、クラウディアが知る限り、一匹しかいない。
屋敷の庭で飼っている、薄茶色の毛、くるんと巻いた尻尾の、柴犬の仔。
《愛くるしいコタロウが、パーシヴァルの目にはこう見えているということなのか……? え、ちょ、やだ、こわいこわいこわい》
「ちがう!」
「コタロウはもっと丸いでしょっ!」
「なんで足が5本もあるの?」
子供たちの容赦ないツッコミに、王国の守護神は眉をハの字にして項垂れる。
そして、クラウディアは、さっきのルネの異変の理由を理解した。
子供たちのように国の英雄を正面から笑うわけにもいかない。今頃、別室で腹を抱えて転げまわっているのだろう。
「あの……そんなに下手ですかね。俺の絵」
「……んふぁっ!」
背後で、あの無表情なソーニャが噴き出し、涙を溜めながら庭へ全力疾走していくのが見えた。
平民から一代限りの騎士となり、将軍にまで登り詰めた王国の守護神。
辺境伯に陞爵してからは、武だけでなく、独学で礼儀作法や学問を修めていき、果ては料理まで器用にこなしてしまう。
その完璧超人、パーシヴァル元将軍が――絵だけ壊滅的。
何事も卒なくこなす普段の万能ぶりとのギャップが面白すぎた。
「ええと、その……私は、とても個性的で、うん、いい絵だと思うわ。なんというか、すごく、独創的で」
「良かった……! 皆の反応で、自信が無くなっていたんです」
いつになく照れた表情を浮かべるパーシヴァル。
むしろ今までは自信があったのか、とクラウディアは戦慄した。
《ぶばふっ!!》
脳内のジャスパーが耐えきれずに爆笑の渦に飲み込まれたが、クラウディアは令嬢としての鋼の表情筋でそれを押し殺し、微笑みを湛え続けた。
こうして――リァマの里に、画伯が爆誕した。




