第51話 死神と天上の花
翌朝、広間には大小さまざまな包みが山のように積み上げられていた。
貝殻色の床に色とりどりの紐が波のように絡み合い、まるで祝いの珊瑚礁が一夜にして築かれたかのようだった。
「あまり長いこと引き留めんのは無粋やさかい、このへんにしまひょか。お土産、どれでも好きなもんを一つ選んで、持って帰って」
乙彦は軽やかに笑う。
けれどその声音には、別れを惜しむ響きがわずかに滲んでいた。
クラウディアは困ったように睫毛を伏せる。
「こちらは手ぶらで訪問してしまいましたので……」
辞退しようとする彼女の言葉を、乙彦は首を横に振って遮った。
その視線は、クラウディアの背後に控える真珠色の髪の侍女へと向けられている。
「お返しやったら、そうやね、ルネ。うちとソーニャの絵、書いてくれへん?」
思いがけない願いに、ルネは目を瞬かせた。
「いいわね。今日の記念に最高の作品を仕上げてあげる」
「おおきに。ほな、とっておきの場所に案内したげる」
ルネはソーニャの手を引いて、嬉しそうに宮殿の中を見せて回った。
海宮――それは海の王の居城であり、神殿だった。
天井は高く、幾重にも連なるアーチが遥か奥まで続いている。淡い青と真珠色に彩られた曲線は、凍りついた波をそのまま石へと変えたかのよう。壁面には金糸のように繊細な装飾が絡み、その先で小さな光の粒が星屑のように瞬いている。
床は鏡のように磨き上げられ、薄く張られた水がゆるやかに揺らめく。歩むたび波紋が広がり、天井の光を映して銀青のさざ波を描いた。
広間の中央には、巨大な蒼い球体が鎮座している。月光を閉じ込めた半透明の球は、内部で無数の気泡と光の粒を抱き、ゆっくりと脈打つように輝いていた。その周囲には、地上の花が時を止めたまま、ガラスの球体の中で静かに眠っている。
回廊を抜けると、翡翠色の水を湛えた庭園が広がっていた。
池の中央には朱塗りの東屋が浮かび、一面を蓮の葉が埋め尽くしている。その間を縫うように赤い橋が架けられ、薄紅の花が朝露を纏って淡く光を放っていた。
橋の途中で、ルネが足を止める。絵師のお眼鏡に叶う構図を見つけたようだ。
ルネのポーズ指示により、東屋で乙彦とソーニャは、自然と寄り添う姿勢になった。
欄干越しに見下ろせば、透明な水の下を銀色の小魚がすばやく走り、葉影に身を隠した。
静かな時間が流れる中、乙彦がふと、祈るような低声で問いかけた。
「……さっき言ってた恩人やけど……その、好きなん?」
「いいえ。本当に、恩を返したい、というだけです。懸想するなど、とんでもない」
男爵領の孤児院では、器量の良い子は年端もいかない頃から、男女問わず、娼館へ売られた。
見目自体は悪くなかったにも関わらず、ソーニャはその中には入らなかった。
老人よりも白い髪、血の色の瞳。生まれ持ったこの色は、それほどまでに人々の嫌悪の対象だったのだろう。
禍々しい容姿は暗殺者になった後も、「紅い死神」という二つ名で、自分についてまわった。
「この瞳の色と同じように、私の手は血に染まっています。こんな私が、誰かを想う資格などないのです」
静かにその言葉を聞いていた乙彦は、ふいに泥の中から真っ直ぐに伸びた一輪の蓮を指で示した。
「この花。綺麗やろ。」
急に花の話を振られたソーニャが池に目を向ける。
そこには大きな花の蕾があった。
「蓮。極楽浄土に咲く花なんやて。……こんな清浄な花がな、泥の中で咲くんよ」
蓮の池の水は澄んでいたが、池の底は細かい粒子の泥。その泥を押し分けてすっくと立つその姿は、静かに、しかし揺るぎない気高さだ。
“ 蓮は泥より出でて泥に染まらず。”
そんな諺で解説するまでもなく、乙彦の言葉はソーニャの心の水面に小さな波紋を立てて落ちていった。
ルネの筆が、その一瞬の、心の救済をキャンバスに写し取る。
朱の東屋、翡翠の池、天上の花、そして並び立つ二人の姿。水彩の滲みが、かえって一瞬の気配を確かなものにした。
半日をかけて寄り添う二人を描いた画が完成した。
「きれいや……! ルネ、ありがとう。うち、一生の宝物にするわ」
◇
広間に戻った一行は、別れの儀式として、烏の忠告通り、その場で土産の包みを解いた。
クラウディアの箱からは真珠が散りばめられたヘアネット。
パーシヴァルは古金貨がずしっと詰まった皮袋。
だが、ルネと石蕗の箱には、きらきらと光るだけの海砂が入っていた。
「残念、ハズレの箱やったね」
「ハズレもあるのかよ!」
「変な物入れてないだけ、有難いと思うて」
どっと笑いが広がる中、最後にソーニャが箱を開けた。
中には、大粒のパライバトルマリンが揺れるネックレス。
海を思わせる鮮烈な青緑が、光を抱いて揺れている。
手に取って矯めつ眇めつ眺めていたソーニャへ、乙彦が背後から囁いた。
「大当たり。……うちの瞳と同じ色や。うちの代わりに、側に置いてな」
乙彦の囁きは冗談めいていながら、射抜くような真剣さを孕んでいた。
リァマへ戻るため、一行は再び桟橋へ。
たらい舟にソーニャが乗り込もうとしたその時、乙彦が詰まったような声を上げた。
「あの花はな、咲くときには、ぽんっと小さい音がするんやって。……また、見においで」
池の蓮はまだ蕾のまま、ただ静かに水面に浮かんでいる。
二人でその音を聞ける日は、来るのだろうか。
『でも、きっと貴女はもう、ここには来ないんやろうね』
遠ざかる船を見送る乙彦の唇が、声にならない寂しげな微笑みを刻んでいた。
その姿は、再び寄せる波に消えていく幻のように儚かった。




