第50話 求愛行動
あらゆる生命の源であり、多種多様な生き物が棲む海。
その豊穣さは同時に、一瞬の油断が死に直結する熾烈な生存競争と隣り合わせであることを意味する。
潮流は容赦なく命を攫い、捕食者は常に牙を研ぎ、環境は一瞬で様相を変える。
この過酷な世界で生き残るには、単なる強さだけでは足りない。何者にも染まり、何者にも変われる柔軟さ――それこそが、悠久の時を経て海が導き出した生存戦略なのだ。
その最たる例として、性転換を行う魚は数百種類にも及ぶ。
たとえばホンソメワケベラのように、群れの中で最も大きく強い個体がメスからオスへと転じる種。
逆にクマノミのように、最大個体がメスとなり、次点がオスとしてそれを支える種。
群れの構造が崩れれば、瞬く間に別の個体がその役割を引き継ぐ。
そこに戸惑いはない。命を繋ぐための、あまりに合理的で切実な選択だ。
乙彦の種族もまた、その海の理に生きていた。
彼らは本来、固定された性を持たない。
冷たい海の底で幼少期を越えるには、脂肪を蓄えやすいメス体質の方が生存に有利であるため、子供時代は一様に娘として育つ。
やがて成体となり、真に魂を焦がす番を選ぶ時が来る。
もし選んだ相手がメスであれば、自らは猛々しきオスへ。相手がオスであれば、命を育む豊満なメスへと。
体内のホルモンバランスが揺らぐことで、骨格すらも滑らかに形を変える。
しかも、その変化は一方通行ではない。
環境と意思に応じて、満ち引きを繰り返す潮のように、存在の在り方さえも変容させるのだ。
無事に成体まで育つようにと、男名を授けられた乙彦。
しかし、心から番にしたいと思える相手に出逢えず、今日まで女性として過ごしてきた。
運命の相手に出逢ったとき、肉体が変わるほど本気であること。そして、自分が成熟した個体であることを証明するために己の肉体を晒して見せる求愛行動は、海の世界において至極真っ当で、誠実な儀式である。
――と、頬を赤らめて滔々と力説した乙彦を、北海よりも冷淡な視線で見下ろし、クラウディアは言い放った。
「それが露出狂の言い訳になるとでも? その上、淑女の前でこのような下品なやり取り……万死に値しますわ」
《性犯罪者は⚫︎ね、クソが》
一刀両断である。
絶世の美青年である乙彦と、横で面白がっていたルネは、今や借りてきた猫のように大理石の床へ正座中だ。
「……はい」
消え入るような声で乙彦が答えた。
◇
不思議な邂逅ではあったが、一通りの “教育”を経て、ようやく挨拶と自己紹介は済んだ。
乙彦が扇をひと振りして宴の開始を宣言すると、場は一転して華やぎを取り戻す。
潮騒のさんざめく歌が響き、波のうねりを模した舞が披露された。
海に差し込む光の粒を散らしたような料理が次々と並び、海藻を練り込んだ翡翠色の麺や、水晶のように透き通る刺身が卓を彩った。
「ところで、ルネ様の持っている宝具ですが、乙彦様からの贈り物とお聞きしました」
食事が落ち着いた頃、クラウディアが本題を切り出した。
「せやね。前に、絵のお礼にあげたもんやわ」
乙彦は目を細めて笑う。
だが、次の問いにはわずかに視線を伏せた。
「どこで手に入れたのか、教えていただけませんか?」
しばしの沈黙。
海宮の静寂が、以前よりも重く降り積もる。
やがて乙彦は静かに首を振った。
「教えられへん、それは。一族の、秘密の場所やから」
「そうですか……」
「いけずゆうてごめんやで。他所もん入れたら、おもうさんに怒られてしまうねん」
「いえ、不躾な質問をしたのはこちらです。お忘れになって」
和やかに終わるかと思われた空気が、ふと、乙彦の瞳の色の変化とともに変質した。
アイスブルーの虹彩が、深淵のような闇を帯びる。
「ん、でも……そうやねぇ。ソーニャちゃんと引き換えに教える、ゆうたら、どうする?」
大理石のテーブルに頬杖をつき、乙彦は真顔でクラウディアを見つめる。
冗談とも本気ともつかぬ、底の知れない声音。
「うちの番になるなら、ソーニャちゃんは一族の仲間や。そしたら、おクラちゃんも親戚みたいなもんやろ?家族になら、秘密を明かしてもええよ」
「お断りします」
間髪入れぬ返答。乙彦の眉がぴくりと動く。
「うちのせっかくの申し出を断る、ゆうの?」
「ソーニャは物ではありませんので」
「使用人なんて、所詮は駒やろ。主人が死ねゆうたら死ななあかんのがこの世界の道理や。違う?」
「クラウディア様、私は構いません、もしそれで――」
身を乗り出そうとしたソーニャの言葉を、クラウディアは片手で制し、一歩も退かなかった。
「……なんと言われましても、お受けできません。私の侍女を対価にするような取引に、未来などありませんわ」
緊迫した空気が張り詰め、パーシヴァルの手が剣の柄に、石蕗の手がモーニングスターに伸びかける。
そして。
「……ごーかく」
「……え?」
「合格や、ゆうたの。試してごめんやで」
乙彦は肩の力を抜き、ふっと頬を緩めた。
「残念やわ。使用人を使い捨てるような冷たい主人やったら、無理矢理にでも奪ったのに。うち、可愛い子を虐める奴は嫌いなんや」
口調は軽い。だがその瞳には安堵が滲む。
「ソーニャちゃん、今のご主人はほんまにええひとなんやね」
「はい」
「……そっか。色々とごめんやったで」
ソーニャは小さく首を振る。
「私、恩人がいるんです。ただ、その人の、お役に立ちたい。クラウディア様を生涯かけてお守りすることが、私の使命だと思っているのです。……だから、あなたの番にはなれません」
静かな、しかし揺るがぬ声だ。
「そう……ありがとう、ちゃんと断ってくれて」
乙彦が深く息を吸い込むと、その肉体は陽炎のように揺らいだ。
骨格が軋む音もなく、背が縮み、肩幅が狭まり、豊かな曲線が戻ってくる。
さらりと流れる銀髪。先ほどまでの青年の面影を残しつつも、そこには再び、匂い立つような佳人が立っていた。
「ほな、改めて。うちは乙彦。海神ワタツミの子で、水界の妖の長。……おクラちゃん、あんたのこと、気に入ったわ」




