第49話 水妖の本気
ソーニャの悲鳴は、海宮の静かな回廊に思いのほかよく響いた。
水を隔てたはずの音は、不思議と減衰せず、澄んだまま遠くまで届く。それはまるで、深海の静寂そのものに鋭いひびを入れるような切実な声だった。
異変を感じ取った一行が、ほぼ同時に駆け出した。
扉の前で一瞬だけ視線を交わし、誰からともなく頷くと、重厚な扉を勢いよく押し開けた。
その瞬間、全員が、ぴたりと石像のように動きを止めた。
そこにいたのは――海宮特有の、薄絹を幾重にも重ねた衣装を纏ったソーニャだった。
淡い水色と銀を基調にした布は、水流に乗るようにふわりと揺れ、彼女の細い体を包み込んでいる。髪には鼈甲の簪が挿され、白い髪との鮮やかな対比は、正しく深海の宝物のようだった。
――ただし、その顔色は、死線すら幾度も潜り抜けた暗殺者とは思えぬほど、見事に蒼白であったが。
そして、そのすぐ隣。
ぴたりと寄り添うように立っていた“それ”に、全員の視線が吸い寄せられる。
傾国という言葉をそのまま形にしたような、人外の美貌。
透き通る銀糸の髪がゆるやかに背を流れ、中性的で整いすぎた顔立ちの唇には、薄く紅が引かれている。伏せた睫毛の影すら計算された芸術品のようだった。
しかし、ソーニャと色違いの衣装は、その美しい鎖骨の下で大きくはだけている。そこから覗くのは、しなやかな筋肉が乗った、紛れもない“男の胸板”だった。
理解が追いつかない沈黙。
次の瞬間、それを粉砕するように、ルネの怒声が炸裂した。
「乙彦! アンタ何やってんの!!」
名指しされた“美貌の男”は、ゆっくりと視線をルネへ向け、拍子抜けするほど気の抜けた声で応じた。
「……あれ? ルネやん。なんや、久しぶりやねぇ」
あまりの平常運転ぶりに、クラウディアが小さく首を傾げる。
《乙ちゃんって、乙姫を思わせる儚げ美女じゃなかったのか? なぜ、無駄に色気のある『男』がそこにいる?》
ルネはずいっと詰め寄り、詰め寄った。
「挨拶はいいから、何してんのって聞いてんのよ!」
「何してるって、見れば分かるやん? うちの体がちゃんと『男』になったでって、アピールしてんのん」
さらりと恐ろしいことを言いのけた乙彦は、「邪魔は無粋やで?」と微笑み、はだけた胸元を指先でさらに左右へ引き広げた。
至近距離。逃げ場のないソーニャの視界いっぱいに、過剰なまでの“雄”の気配が押し寄せる。
「やめなさいよ、この変態!」
「嫌やわぁ。うちらのは変態やのうて、性転換」
「そういう理屈を言ってんじゃないの! 女の子に半裸で迫る変態行為をやめろって言ってんのよ!」
話の通じなさにルネが額を押さえる。
乙彦は本気で困惑したように、美麗な顔をこてん、と45度に傾けた。破壊力が高すぎる。
「え? うそぉ、ダメなん? じゃあ、どうやって求愛すればええのん?」
「とにかくソーニャちゃんから離れて! あと、元に戻って!」
ルネがソーニャを自身の背後に引き寄せる。乙彦は頬をぷくっと膨らませた。
「嫌や。せっかく番を見つけたんやもん。男らしいとこ、アピールせなあかんのに」
見た目が絶世のクール美形なだけに、ギャップがひどい。
そこで乙彦は、ふと考え込んだ。
そして、ふと何かに思い至った顔になる。
「あ。見せるの、下の方が良かったんやろか」
「やめなさい!!」
ルネの声が、もはや悲鳴に近い。
「でも結構ええ感じのん付いたと思うねん。ほら――」
「ストップ!!! ちょ、いきなりそんなモノ、白昼堂々(海底だけど)見せないで!」
しかし乙彦はまったく懲りずに、自慢げに続けようとする。
ルネは悲鳴を上げながらも、一瞬顔を背けた後――芸術家としての好奇心に勝てず、まじまじと観察を始めた。
「……ん? あらぁ……。アンタ、なかなかいいモノ持ってんじゃないの!」
「でしょ?」
乙彦が得意げに笑う。
「ルネのも見せて。……あ、スゴイ綺麗な色や」
「やぁだ、やめてよ。乙ちゃんの方が破壊力あるじゃない」
そのカオスなやり取りを、クラウディアは完全に無表情で見ていた。額には、ピキリと、うっすら青筋が浮いている。
クラウディアの雷が落ちるまで。
5秒。4秒。3秒――。
「……乙彦様」
その一言で、場の空気が絶対零度に凍りついた。
声は、静かだった。ただ――そこには一切の温度がなかった。
ルネが即座に口を閉じ、ソーニャはびくりと肩を震わせた。乙彦だけが、きょとんとした顔で振り向く。
すると、クラウディアと視線が、合った。
ぞわり、と見えない冷たい指が背骨を撫で上げるような感覚に、乙彦の頬が引き攣る。
完璧な角度で。
完璧な柔らかさで。
そして――一切、笑っていない目でクラウディアは微笑んでいた。
「まず、確認させていただきます。ここは“客人を迎える場”であると認識しておりますが、間違いございませんか?」
喉元に氷の刃を突き付けるような、静かな威圧。
「その場において、我が侍女に対し、半裸で接近し、恐怖を与える行為は……“適切”とお考えですか?」
一歩、クラウディアが踏み出す。空気の圧がさらに一段階、重く沈んだ。
「……まずは服を整えていただけますか。今、すぐに」
有無を言わせない確定命令。
自由奔放な海の主であるはずの乙彦は、なぜか反射的に、借りてきた猫のように大人しく衣を整えた。
それを見守っていたパーシヴァルは腕を組み、「怒鳴らねぇ方が怖ぇやつだ、これ」と静かに呟く。
一方、石蕗が、頬を染めてぽつりと呟いた。
「怖いはずなのに、さ……。なんか、俺、ちょっと……ドキドキしちゃった……」
「やめなさい、バカ」
ルネが即座にその後頭部を叩いた。
ヘタレ童貞鬼の分際で、特殊な嗜好の扉を開くのは100万年早い。




