第48話 魅了の瞳
食事が終わると、乙はどこまでも慈愛に満ちた、しかし有無を言わせぬ響きで告げた。
「今日はもうお疲れですやろ。ゆっくりおやすみ」
少女たちに導かれ、ソーニャは柔らかな絹の寝具が整えられた客室へと連れて行かれた。
それからの日々は、夢幻のような接待の連続だった。
次の日も、そのまた次の日も、これ以上ない美食と、心を解かすような香、そして涼やかな舞。
しかし乙は、ただ静かに微笑みながら、吸い込まれるような瞳でソーニャの一挙一動を見つめ続けていた。
沈黙に耐えかねたソーニャは、陸の話を好む乙を満足させるため、そして自分を繋ぎ止める正気を保つため、驚くほど饒舌になっていた。
王国の情勢、クラウディア様の気高さ、リァマまでの過酷な旅路。乙は熱心に聞き入り、ときおり愛おしそうに目を細める。
しかし、やがて話題が尽き、広間に重い沈黙が落ちた。
「あの、もう……」
帰還を切り出そうとしたソーニャは、再び烏の忠告を思い出し、咄嗟に口元を掌で押さえた。
どんなに帰りたくても、こちらから言ってはいけない。
だが、乙はその動揺を見逃さず、くすりと妖艶に笑った。
「そんな、まだ来たばっかりやないの。もっと、お話が聞きたいわぁ」
美麗な顔をゆっくりと傾け、乙が身を乗り出す。
「そうや。今度は、貴女自身の話をして」
乙の瞳は、冬の湖の氷のように澄んだアイスブルーをしていた。見つめられると、思考が霧に包まれ、意志が溶けていく。
魅入られるとはこういうことを言うのだろう。
催眠術にかかったかのように、ソーニャは今までクラウディアにさえ詳しく語らなかった己の生い立ちを、ぽつりぽつりと零し始めた。
白髪と赤目という異端の色をもっていたためだろうか。
生後すぐに孤児院の前に捨てられていたと、院長から聞いた。
髪と目の色で悪魔の子として忌み嫌われ、孤児院でも最下層の存在だった。
貧しい男爵領で孤児たちに供される食事量は少ない。他の子供たちが悪魔の子から暴力で衣食を奪うのは自然の流れだった。
命の危険を感じて孤児院を脱走した後は、暗殺や強盗を生業にする組織で生き延びるという選択をした。
子供の姿でターゲットの警戒心を解き、犯行後も「まさかこんな幼い子が」と疑われもしない。いつしか、「赤い死神」という異名で呼ばれるようになった。
屠った人間の数を思い出せなくなった頃、ある貴族が自分の娘を王太子妃につけようと画策し、クラウディアの暗殺を組織に依頼した。しかし、裏社会に太いパイプを持つ公爵の手により、着手する前に組織は壊滅させられた。
その際に、まだ幼いからと理由でソーニャは公爵領の孤児院で保護されることになった。
話し終えたとき、乙は本当に痛ましそうな表情で、静かに言った。
「大変やったんやねぇ。こんなかいらし子が、かわいそうに」
乙の指先が、ソーニャの震える頬に触れた。
そして、血のように赤い瞳を隠すための野暮ったい眼鏡をそっと外す。
「人間ちゅうのは阿呆なんやな。こぉんな綺麗な瞳やのに、悪魔なわけないやないの。色素が薄ぅて、血の色が透けてるだけ。……綺麗なだけやのうて、深い哀しみや絶望が溶け込んだ、ふかぁい色してる。なんや、うちまで切なくなってまうわ」
ふぅっと、乙がソーニャの睫毛に息を吹きかけた。
ソーニャは反射的に瞬きを繰り返す。
乙は幼子をあやすようにソーニャの頭を優しく撫で、その耳元で熱い吐息と共に囁いた。
「ね、ソーニャ。うちの『番』にならへん?」
(だめだ。頭が働かない……)
危険を感じるのに、熱に浮かされたような、ふわふわした感覚の中で、ソーニャは「……番?」と譫言のように聞き返す。
「うん。うち、奥さんのこと、めっちゃ大事にするよ」
乙の声は、煮詰めた蜜のようにどろりと甘く、重くなっていく。
「……無理です。私……人を殺……」
ソーニャが必死に首を振ると、海宮を満たしていた静謐な空気が、目に見えない巨大な潮流のようにざわりと揺らいだ。
「過去はなぁんも気にせんでええんよ。全部、ぜぇんぶ、忘れさせてあげる」
突然、乙は自分の髪を止めていた血赤珊瑚の簪に手を伸ばすと、一気に引き抜いた。
結い上げられていた銀の髪が解け、滝のように美麗な顔や背に流れ落ちる。
そして、乙は両腕で自分の体を抱きしめ、快楽か苦悶か判別のつかない震えを肩に走らせた。
「……あかん……もう、堪えられへん……」
零れた一言は、低く、掠れた響きを孕んでいた。先ほどまでの艶やかな女の声ではない。
深く息を吸い込む音と共に、目の前の“女性”が変質していく。
細かった肩が厚みを増し、胸元の柔らかな曲線が引き締まり、しなやかな筋肉の躍動が浮かび上がる。はだけた衣装の隙間から、薄いながらも引き締まった筋肉の乗る胸板が露わになった。
そこに立っていたのは、女性の面影を妖しく残しながらも、暴力的なまでに整った“青年”の姿だった。
「ほら……ね、うちを見て」
紅を差した唇が、肉食獣のような弧を描く。
その射抜くような視線は、もはや獲物を追い詰めた海の捕食者のそれだった。
目の前で起きている現象を、理解しようとソーニャの脳が必死に働く。
だが理解より先に、本能的な恐怖が背筋を走った。
――ついに、ソーニャは堪らず悲鳴を上げた。




