第46話 海底の宮殿
ソーニャがリァマの街を出て3日。
そこには、まるで月光を細かく砕いて敷き詰めたような、輝く白い砂浜が果てしなく広がっていた。一粒一粒が驚くほど細かな砂は、踏みしめるたびに柔らかく沈み込み、きゅっ、きゅっと乾いた小さな音――“鳴き砂”だ。
波打ち際から百メートルほど先、大小二つの岩が寄り添うように並んでいた。
『イアポニアの西の海を目指せ。鳴き砂の浜だ。沖には夫婦岩がある。その岩の間に立ち、花を捧げろ。花を気に入れば、迎えが来るはずだ』
ソーニャは確信した。
ここが、烏から教えられた入り口だ。
彼女は近くの森へ入り、香りの強い花を探した。
白、紅、薄紫、淡い黄。
暗殺者として鍛え抜かれたその指先は、本来武器を振るい、命を刈り取るためのもの。
だが今は、繊細な花弁を傷つけぬよう細心の注意を払いながら、丁寧に茎を揃えていく。
両腕に抱えきれぬほどの量になったところで、持参した絹のリボンを丁寧に結び、見事な花束を完成させた。
海風に、濃厚な花の香が混じり始める。
ソーニャは砂浜へ戻り、覚悟を決めて海へと足を踏み入れた。
夕暮れが近づき、空は柔らかな橙色へと溶けていく。
入江に守られた海面は鏡のように穏やかだが、膝、太腿、腰へと水面が上がるたび、海水は容赦なく体温を奪っていく。
それでも、彼女は歩みを止めなかった。夫婦岩の間に辿り着くと、祈るようにその花束を捧げた。
「……」
波が小さく揺れ、花弁がわずかに震える。だが、何も起こらない。
(……手順を、どこか間違えた?)
胸がざわつく。もし入口を誤れば、この任務は失敗に終わる。
ふいに、暗殺者の心得が脳裏をかすめた。
【状況が分からないまま進むは下策、引くは愚策。息を殺して景色に同化し、突破口を見つけろ】
十分ほど、海の中で静止し続けたその時。沖から丸い何かがゆらゆらと流れてくるのが見えた。
流木ではない。それは、一艘の“たらい船”だった。
(……乗れ、ということかしら……?)
櫂も櫓もない丸い桶。
乗り込んだのはいいが、これからどうすればいいのかとソーニャが思案するや否や、突如、船がくるりと反転した。
「――っ!」
気づいたときには、ソーニャは再び海中へ放り出されていた。
追って、すぐに桶が上から被さる。
頭部はすっぽりと覆われているているため、顔の周囲には空気が残り、たらい船は即席の“潜水鐘”と化した。
丸い桶からソーニャの手足だけが伸びている様は、遠目には亀のように見えるだろう。
そして、たらい船はソーニャを押し下げながら、海底に開いた縦穴へと急降下を始める。50メートル、100メートル。
深い闇の中を滑るように進み、時間の感覚が曖昧になった頃、前方に淡い光が見え始めた。
◇
たらい船が停止したのは、海中にぽっかりと開いた幻想的な洞窟だった。
桟橋に降り立ったソーニャを待っていたのは、色とりどりの絹の衣を纏った6歳ほどの幼い少女だった。
「どうぞこちらへ」
澄んだ声に導かれ、青緑色の光を放つツチボタルの下を抜けたとき――ソーニャは思わず息を呑んだ。
そこは、深き蒼の海の底に浮かぶ、巨大な泡。
空気を閉じ込めた完璧な球体の中には、壮麗な城がそびえ立っていた。
「これが、海宮……」
幾重にも連なる回廊、空へと伸びる細塔、尖塔の先にきらめく金色の装飾。球体の縁で屈折した光が虹色の帯となって城壁を撫でる。白亜の外壁には、紫や紅に染まった枝珊瑚が咲き誇り、球体の外側を悠然と泳ぐ魚群が影を落とす。
それは守られた王城であり、同時に海そのものの心臓部のようでもあった。
やがて、ソーニャは大理石のテーブルが置かれた広間へと通された。
奥の間から現れたのは、一人の女性だった。
透き通る銀の長い髪を飛仙髻に結い上げ、血赤珊瑚の簪で留めている。一度も陽を浴びたことがないであろうきめ細やかな白い肌に、蠱惑的な紅の唇が際立つ。
それは、生ける芸術品のような美貌。
暗殺者としての警戒心さえ一瞬で霧散させるほど、圧倒的な存在。
「ようお越しやした。うちは乙、と言います。よろしうな」
柔らかな声音が広間に響き、ソーニャはようやく、自分が使者であることを思い出した。




