第44話 狩と命
鬼の里を出発する際、泰山や紋女から、米、干し魚、干し肉、納豆、沢庵、味噌、醤油、酒といった保存食が山のように持たされていた。そのため、リァマへの帰路における食糧事情は、むしろ贅沢なほどに盤石だった。
それでも新鮮な食材が欲しくなれば、周囲は手付かずの自然が残るイアポニア――そこは、最高の狩場でもあった。
川では岩魚を、浜では貝を、そして森では野生の命を。
弓の練習を兼ね、クラウディアも狩猟に挑戦する。しかし、動かぬ的とは違い、生き残るために変則的な動きを見せる獲物を射抜くのは、至難の業だった。
「相手の動きをよく見て。呼吸を合わせるんだ。慌てなくていい」
パーシヴァルが背後から弓の引き方を再度手解きし、数十メートル先の茂みを指差した。
そこには、一頭の若い雌鹿がいた。
細い四肢に、濡れたような大きな瞳。草を食みながら優雅に歩く様は、森の貴婦人と呼ぶに相応しい気品を纏っている。
「鹿は目は良くないが、音には敏感だ。足音を殺して、確実に当てられる距離まで。そして、鹿が完全に立ち止まる瞬間を待て」
パーシヴァルの教えは実践的だった。
「もし半矢で逃したとしても、深追いはせず血の跡を辿ればいい。苦しみを長引かせないように、落ち着いて確実にトドメを刺してやるのが、狩人の礼儀だ」
コツさえ掴めば、そこからはジャスパーの理知的な感覚が牙を剥く。
風向きを読み、音を消して距離を詰める。
両足を広く開き、安定した射出台を構築。
背筋を伸ばし、迷いなく弦を引いた。
シュン、と空気を切り裂く鋭い音。
狙いを過たずに首を貫かれた鹿は、鳴き声を上げる暇もなくその場に崩れ落ち、痙攣の果てに絶命した。
自ら仕留めた獲物を解体する作業。
太い枝に鹿を逆さに吊るし、ナイフで頸動脈を割いて血抜きを行う。熱を帯びた生臭い匂いが辺りに漂うと、おこぼれを狙って、周囲から肉食動物たちが集まってきた。
体表を清め、臓腑を抜き、皮を丁寧に剥ぐ。骨の構造と繊維の流れに沿って肉を切り分け、食べられない部位は足元の動物たちへ分け与えた。
この星に降り立ったばかりの頃は、他者の命を喰らうこの星の生命体を「野蛮な未開人」と蔑んでいた。
しかし今、ジャスパーは自らその手を赤く染め、命の重みを受け取っている。
《あたたかい……》
つい先程まで、心臓を動かしていた熱。自分が射た矢が奪った、確かな生。
ありがとう。ごめんなさい。……ありがとう。
感謝と謝罪を交互に口にしながら、命を「食糧」へと変えていく。その光景は残虐に見えて、その実はひどく真摯で、祈りにも似た神聖さを帯びていた
仮に手を汚さなくても、衣食住を通して他の生き物の命を奪っている。
ならば、その罪に向き合い、命を奪った責任として、自分の命を大切にすることを誓う。
その日の夕食、彼女は鹿の肩肉を塊のまま、弱火で1時間じっくりと焼き上げた。
緻密な温度管理による焼成と、森で摘んだクロスグリの酸味を効かせたソース。それは、王都の晩餐会に出されても誰もが感嘆するであろう、極上の一皿へと昇華されていた。
「クラウディア様の手料理なんて、これ以上の贅沢はないわね。焼き加減も完璧!」
「え、うそ、これ本当に鹿肉? 滅茶苦茶おいしい……」
ルネと石蕗が、忖度のない賞賛を贈る。
「令嬢の料理にしちゃぁ、ちょっと豪快すぎる気もするが、まあ、美味いですよ。ソースもよく出来てる」
「お口に合って良かったですわ」
《豪快とは失礼な。表面をメイラード反応によって焼き固め、内部温度を70度に維持し、肉汁を閉じ込めた、この繊細な一品を。》
そうは言いつつも、料理の師匠でもあるパーシヴァルが次々と口に運んでいるところを見るに、及第点は貰えたようだ。
気を良くしたクラウディアがポンシュに手を伸ばす。
王都なら血のような赤ワインと合わせていただくだろうが、旨味や甘味が強く、ふくよかな香りの無濾過生原酒が鹿肉とことのほかよく合う。
手持ちの材料ではこれが限界だったが、ピリッとした香辛料を散らせばアクセントになり、もっと味が引き締まるだろう。生胡椒の塩漬け、いや山椒の方がいいかもしれない。
クラウディアの飽くなき探求心は、もはや一流の料理人の域に達しつつあった。
一行は峻険な山岳地帯を避け、海宮のある西の海岸線を目指す。
イアポニアには、火山活動によって形成されたカルデラ湖や火砕丘のような独特の地形が多い。自然の作り出す荒々しくも繊細な造形は、人々を魅了する美しい景観となっていた。
カルデラ湖の水は透明度が高く、水中のミネラルや太陽光の角度、水深、空の青の映り込みなどにより、深い青からエメラルドグリーンまで様々な色に変化する。
低栄養のため魚は棲めないが、水を好む妖や木々の精が静かに集っていた。
「なんて美しいの!創作意欲が湧きまくりだわぁ!」
ルネは湖畔に座り込み、夢中で筆を走らせる。
湖に素足を浸し、妖たちと戯れるクラウディアは幻想そのものだった。
射干玉の髪が風に揺れ、翠の瞳が水面の光を映す。猫科の獣を思わせるしなやかな肢体から長く伸びる手足。
これほど画家の創作意欲を唆るモデルは、王国中探してもそうはいないだろう。
もしかすると彼女も妖なのでは、と思ってしまうほどの、人外の美がそこにあった。
「ルネ……あとで、その……一枚、ちょうだい……」
こそこそ頼む石蕗に、ルネは呆れ顔で笑った。
見目が凛々しくなったところで、中身はそう簡単には変わらないようだ。
「あとでね、族長様」
湿気の多いイアポニアに降る雨や雪解け水は、地下の溶岩によってろ過され、澄んだ湧き水がもたらされる。地面から湧き出す源泉と川水が混じる天然の温泉があった。
女性の護衛であるソーニャが不在のため、警護はパーシヴァルが一手に担う。
クラウディアは湯帷子を着ているが、それでも女性の入浴だ。
なるべく見ないよう、視線を山の稜線へ固定する。
ちゃぷり、と水音がするたび、妙な居心地の悪さが胸をくすぐった。
(護衛だ。護衛に徹しろ)
己に言い聞かせるが、頬がわずかに熱い。
王国の守護神と呼ばれた男が、これでは形無しであろう。
「うわぁ、何これ、めちゃくちゃ甘酸っぱいんですけどぉ?!」
ルネは貴族には珍しく、芸術で身を立ててきた一族の生まれである。
芸術にはもちろん愛は欠かせない。
常に色鮮やかな感情を求める彼らは、婚姻のような法的縛りに囚われることなく、最上の愛を常に求め続ける。ルネの父は未婚を貫いており、三人兄弟は全て母親が違う。
平たく言うと、結婚はしない、一夜限定・同時並行上等の、非常に自由な恋愛観の中で育った。
自身もウェヌス神の導きに従い、ローティーンの頃から数多の男女と喜びを分かち合ってきたルネは、もだもだする2人を前に、こちらが気恥ずかしくなるやら、もどかしいやら、楽しいやらで複雑な気分だ。
「役得ねぇ。こーんな、面白いもの見れるなんて」
この瑞々しい感情は、芸術の肥やしになるに違いない。
クラウディアのお抱え絵師に立候補できて良かったと、にやにやする口元をそっと手で隠した。




