第42話 父と息子
夕餉と入浴を済ませ、泰山が自室に戻ると、文机の上に一通の手紙が置かれているのに気づいた。
几帳面で、角張った字。
『道場で待つ』
それだけだった。余白すらきっちりと揃えられたその潔い筆跡に、泰山は小さく息を吐いた。
癖の強い「止め」と「払い」。それは幼い頃から何度も目にし、そしてここ数年は一度も目にすることのなかった文字だ。
―― 石蕗。
泰山は羽織を整え直し、無言で立ち上がった。
茶室のある東の離れには、武芸のための道場が併設されている。夜の帳が下りた邸内に人気はなく、渡り廊下を進む泰山の足音だけが、やけに重く響いていた。
襖を開けると、そこは約40畳の静謐な空間が広がっていた。天井は高く、むき出しの梁が威圧感を放っている。杉の無垢材の上には、すでに柔道用の畳が隙間なく敷き詰められていた。油を含んだ古い木の匂いと、新調された畳の青い匂いが混ざり合う。
その中央に、道着姿の石蕗が正座していた。
「来てくださり、ありがとうございます……父上」
父と呼ばれたのは、何年ぶりのことだろうか。
泰山は一瞬、言葉を失った。
久しぶりに正面から見る息子は、泰山の記憶よりも遥かに逞しくなっていた。肩幅は広く、首は太い。道着越しにも分かる分厚い胸板。
紋女は引きこもりだと言っていたが、彼はこの数年、独りで研鑽を続けていたのだ。かつては小さく頼りなかった背中が、今は堂々と畳を支配している。
「久しいな、石蕗」
情けないことに、それ以上の言葉が続かない。
幼い頃の石蕗は、体が弱く、泣き虫だった。
小さな角をからかわれれば、拳を握ることもせず、涙を零しながら紋女の後ろへ隠れた。
それは、力と誇りを重んじる鬼の子としては致命的な弱さに見えた。
だから泰山は、彼に厳しく武道を叩き込んだ。
剣、槍、徒手格闘――。
泣こうが喚こうが、石蕗が立てなくなるまで稽古をつけた。
だが、厳しくすればするほど、石蕗の心は殻に閉じこもり、その瞳から光が消えていった。15を過ぎる頃には、彼は自室に籠り、筆と紙だけを友とするようになった。
自分は、やり過ぎたのではないか。
幾度も自問した。だが、謝ることも歩み寄ることも、この男にはできなかった。この親子を引き裂いている不器用さは、間違いなく泰山自身の血によるものだった。
石蕗が深く頭を下げる。
「勝手に何年もサボっていたにも関わらず、突然このようなお願いをして申し訳ありません。その……稽古を、つけてもらえないでしょうか?」
「……理由は?」
短く問う。
石蕗の拳が、畳の上でわずかに震えた。
「卑怯な自分を、叩きのめしたいからです」
石蕗が絞り出したその言葉は、道場の静謐な空気を震わせ、泰山の胸の奥に深く突き刺さった。
「鬼の女は、明け透けで慎みがない。だから俺は、人間の書物に出てくるような、控えめで貞淑な女性が理想だと思っていました」
自嘲の笑み。
「でもそんなものは幻想だと、分かっていた。だから物語を書いた。誰も自分を傷つけない世界を。何もしなくても、理想の女性が自分に好意を持ってくれる、都合のいい話を」
クラウディアが蔵に現れた日のことを思い出す。
「あの日……ルネのアトリエの蔵に現れた女性は、羽衣を巻いた天女のようでした。罪を背負い、遠くへ追われたと聞いたときは、輝夜姫だと思った。どうせいつか空へ帰ってしまう。ならば、どんな男も平等に叶わない。最初から諦めていれば、惨めにならずに済む」
だが、迎えに来た騎士は違った。
石蕗は拳を強く握る。
「俺は……スタートラインにすら立っていなかった。なのに、ルネに言われて、浅ましくも、期待していた自分に気づいたんです。傷つくことが怖くて、何もできないくせに、彼女が自分の元へ堕ちてきてくれることを」
「叩きのめして、なんとする」
泰山の声は低い。
「自分の弱さと、真っ直ぐ向き合いたい」
一瞬の静寂。
「俺はこれまで、自分の弱さを父上のせいにしてきました。角が小さいのも、気が弱いのも、人との混ざり物だからだと。でも、本当は違う。知っていました。知っていたのに、見ないふりをして逃げていたんだ」
泰山は目を見張った。
自分もまた、同じだったのではないか。
鬼の子の父として強くあらねばならぬと焦り、人である自分の血を引く息子に無理をさせた。強くしたいというのは、己の劣等感を打ち消すためのエゴだったのではないか。
弱さを持つのは、石蕗だけではない。
「……そうか」
泰山はゆっくりと道着の袖を捲った。
「分かった。それでは始めよう」
泰山の短い号令と共に、空気が爆ぜた。
泰山の動きには無駄がない。水が流れるように石蕗の懐に入り、と、その巨体を軽々と宙へ舞わせ、畳に叩きつける。
「……ぐっ……!!」
背中を打つ衝撃。肺から空気が強制的に押し出される苦しみ。だが、石蕗は笑っていた。痛みが、長く停滞していた自分の甘えを削ぎ落としていく感覚。
「まだ……! まだです!!」
石蕗は歯を食いしばり、立ち上がる。
拳、蹴り、肘。容赦のない打撃の嵐。
骨が軋み、口の中に鉄の味が広がった。
一切の手加減をしない泰山の攻撃は、望み通り石蕗を完膚なきまでに打ちのめしていく。その巨体を軽々と畳に叩きつける。
やがて東の障子がわずかに白み始め、淡い光が差し込む頃、最後の投げが決まった。
石蕗は畳に沈み、そのまま大の字になった。激しい呼吸。汗が畳を濡らし、湯気が立ち上る。
だが、その瞳に迷いはもうなかった。
泰山は静かに息を整え、倒れた息子を見下ろした。
「……ありがとうございました、父上」
顔を腫らし、満身創痍の石蕗は、それでも泰山の目を真っ直ぐに見据えて立ち上がった。
泰山は、自分の道着の汚れを払うこともせず、震える手で石蕗の肩を強く掴んだ。
「――いい踏み込みだった」
その言葉は、数年の断絶を埋めるにはあまりに短く、不器用なものだった。
しかし、石蕗にとっては、どんな書き慣れた物語の結末よりも美しく、確かな肯定だった。
「……はい!」
憧れの“天女”は、もうすぐここを発つ。
道場を出た石蕗の目に映る朝焼けは、昨日までとは全く違う色に輝いていた。




