第41話 石蕗の覚醒
「さあ、クラウディア様、リァマに戻りましょう」
パーシヴァルの声は、掠れた鉄の音のようだった。その瞳は安堵で潤みながらも、主君を安全圏へ連れ戻さねばならないという、騎士としての強迫観念に支配されている。しかし、立ち上がろうとするその膝は微かに震えていた。
「待って、パーシヴァル卿。せめて一晩休んでからにしましょう」
《バカが。精神力という名の借金を前借りして立ってやがる。今すぐスイッチをオフにしないと、身体が壊れるぜ》
ジャスパーの危惧を汲み取るように、クラウディアの声には有無を言わせぬ響きがあった。慈愛に満ちた、しかし主君としての絶対的な命令。
それが、彼の限界まで張り詰め、今にも千切れそうだった糸をようやく解いた。
「そうだよ。あんた、酷い顔色だ」
紋女が腕を組み、じろりと値踏みするようにパーシヴァルを見る。嘘も虚勢も通じない、鬼族の長としての鋭い視線。
クラウディアの無事を確認した途端、鎧の下の身体は鉛のような重さを取り戻し、瞼は熱く震えた。道中、仮眠程度の休息しか取っていなかった彼の疲労の色は濃い。もはや、気力だけで立っているという声音だった。
「さんせーい!もー、このおじさん、クラウディアが心配だからって、無理しすぎなんだよ。叱ってやってくれる?」
烏がばさばさと翼を揺らしながら、「おかげでボクまで働き詰めなんだけど!」と口を尖らせる。
「しかし、ゲートを通ればすぐに帰れるのでしょう」
「おじさん、話聞いてなかったの?予定が狂ったってイブリムが言ってたよね?」
烏が呆れた顔で羽を広げる。
陸界・水界・空界、それぞれの代表を招いての新領主お披露目会を予定していたが、早馬でも通常は3日かかる場所にクラウディアが飛ばされてしまった。
ゲートを開いた術者の帰還が読めない以上、招待した日に戻るのが間に合わない可能性が否めない。
代表3人のうち2人には既に会っている。ならば残る1人に直接会いに行けばいい。領地視察を兼ね、馬でゆっくり戻る道すがら、海宮に寄る。
海宮には、その旨をソーニャが手紙を運んで知らせる――
イブリムの理路整然とした説明を、焦っていたパーシヴァルはまるで聞いていなかったらしい。
「2人には既に会っているというのは?」
「1人はボク。空の妖の代表。で、陸の妖代表が…」
「あたしだよ」
紋女が小さく手を挙げた。
「ごめん。ちょっと前に烏から招待状をもらってたんだけど、まさか新領主がおクラちゃんだなんて思わなくてさ」
「紋女さんでしたか…」
クラウディアは一歩前へ出る。
「改めまして。リーベル公爵が娘、クラウディアと申します。王領イアポニアを賜り、領主となりました。未熟者ではございますが、どうぞよろしくお願いいたします」
女中用の割烹着の裾を少し摘まみ、優雅に礼をする。
「丁寧にありがとうな。あたしは鬼族の族長、紋女。陸の妖の代表ってのも、やらせてもらってる」
改まった空気に、二人ともくすぐったくなったのだろう。目が合い、同時に吹き出した。
「ぷはっ!」
「なんだか変ですね」
笑い声が弾け、場の緊張がほどけた。
「そういうことなら益々ちゃんと休まないとね。パーシヴァル殿、まずは飯食って、風呂入って、しっかり寝な。そんな疲れてちゃあ、いざって時におクラちゃんを守れないよ」
その一言は、騎士の矜持にまっすぐ刺さった。
「…ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
パーシヴァルが深く一礼する。
その後の光景は、奇妙に穏やかだった。
女中姿のままのクラウディアが、甲斐甲斐しくパーシヴァルの朝餉の支度に動き回る。食後は湯殿へ案内し、清潔な浴衣を差し出した。
「クラウディア様!あの、そのようなことまで…!」
通常、高貴な令嬢が他人の世話をすることなど万に一つもあり得ない。平民の、しかも新妻のような親密な距離感で世話を焼かれ、パーシヴァルは目を白黒させて固まる。
そんな彼を振り返り、クラウディアは悪戯っぽく微笑んだ。
「……お背中、お流ししましょうか?」
「貴女って人は‼︎」
耐え切れず、ついにパーシヴァルが火山のごとき怒声を上げた。
これ以上ないほど顔を真っ赤に染め上げ、湯殿の奥へと逃げ込む彼の背中を見送り、クラウディアは「ただの冗談なのに。そんなに怒らなくても……」と、不満げに独りごちる。
女中たちは、その怒声が怒りではなく、照れであることを即座に見抜き、広間は再び黄色い歓声に包まれた。
その喧騒から遠く離れ、石蕗は肩を落として、離れの自室へと戻る。
悪友、ルネは静かにそれに続いた。
「どうしたの? もう戦意喪失?」
軽い調子だが、ルネの若草色の目は少しも笑っていない。
「だって……あんなの、勝ち目なんてあるわけないだろ……」
「最初っから勝ち目なんて無いわよ。だってアンタ、戦ってもいないじゃない」
石蕗は視線を逸らし、もじゃもじゃの頭を掻きむしる。
「分かってるよ。分かってるから、これ以上酷いこと言わないでくれ……」
「何が分かってるの? クラウディア様が訳アリで追われた身だと聞いた時、アンタ、心のどこかで喜んでなかった? 『こんな自分にもチャンスがある』って思ったんじゃないの?」
「……っ!」
「でも、自分じゃ太刀打ちできないライバルが現れた途端、尻尾を巻いて逃げ出す。情けないわね」
痛い所を突かれて、石蕗は答えることが出来なかった。
「無言は肯定と見做すわよ」
「…そう思ったらダメなのか…?」
「ダメに決まってんでしょ。女性が傷つけられたのに嬉しいって何?自分は向上する努力を何一つせずに、自分の手の届く所まで相手に落ちて欲しいとか、サイテーよ」
ルネの言葉は、鋭い針となって石蕗の胸を刺した。
クラウディアが傷ついた令嬢であることを知ったとき、心のどこかで『自分と同じだ』と安心し、彼女がさらに弱ることを願ってはいなかったか。
長い沈黙の後、ルネは少しだけ声を緩める。
「鬼はさ、強いことが唯一で一番だよね。そんな中で、優しくて弱いアンタは、しんどかったと思う。でも、その繊細さがあるからこそ書ける文章がある。あたしは、そういうアンタが好きだったからここにいたの」
石蕗の喉が詰まる。
「…ごめん…」
「クラウディア様達、明日の朝に出発だって」
それだけ告げ、ルネは背を向ける。
石蕗は俯いたまま、拳を握りしめていた。
明日の朝、クラウディアは騎士と共に去る。この里に、彼女はもう「おクラ」として戻ることはないだろう。
鬼の里の夜は、それぞれの後悔と、認めがたい執着を月光で照らし出しながら、静かに、重く、沈んでいった。




