第40話 パーシヴァルと烏
遡ること5日前――。
鬼の里からリァマの管理人事務所まで、通常であれば早馬を飛ばしても4日はかかる距離である。
しかし、その知らせはわずか1日半で届けられた。馬が夜通し駆け、昼も休まず走り続けたのだ。
庭へと倒れ込んだ早馬の鞍に括り付けられた手紙を読み、パーシヴァルの顔色が劇的に変わる。
そして、それとほぼ同時刻。隠れ里へ手紙を届け、その返事を携えて戻ってきた烏が、中庭に舞い降りた。黒い羽をばさりと払い、人の姿へと戻る。
「ただいまー」
散歩から帰った子供のような気楽な声。そんな烏に、パーシヴァルは低く、地を這うような押し殺した声で詰め寄った。
「頼む。今すぐ、俺を鬼の里へ連れて行ってくれ!」
事情を察したイブリムが、烏に状況を簡潔に説明する。烏は黄金の瞳をぱちくりさせると、露骨に嫌そうな声を上げた。
「ぇえ~? 無事が分かったんならいいじゃない。ルネとかいう奴が戻れば、ゲートで送ってもらえるんだろ? なら、ここで大人しく待ってなよ」
「そんなこと、誰が保証してくれる! 彼女の身に何かあってからでは遅いんだ!」
主従関係にない以上、烏に命令することはできない。
それでもパーシヴァルは、かつて戦場で王に謁見した時よりも深く、その頭を下げ続けた。
「すれ違いになっても構わない。彼女の無事を、この目で確かめたいんだ」
だが、烏は大きく欠伸をし、だらりと羽を垂らす。
「いやいや、ボク今戻ってきたばっかりなんだよ。超絶疲れてるの。分かる?」
「頼む」
「ヤダ」
「頼む」
「ヤダ」
完全な膠着状態。見かねたイブリムが、苦笑混じりに仲裁へ入った。
「パーシヴァル様、鬼族は人間に対して非常に友好的です。そこまで最悪の事態を想定せずとも……」
「人の理の外にある者に、『絶対』はありません。……イブリム殿、頼みます」
パーシヴァルの瞳に宿る、退く気のない、狂気に近い決意。
イブリムは小さく吐息をつくと、彼の耳元で、風のように小さな声で囁いた。
「……では。あの子を動かす『秘策』を授けましょう」
烏は縁側に腰掛け、日吉が淹れてくれた熱いほうじ茶ときんつばで一服していた。羽根に艶がないのは、長旅の疲れが真実である証拠だろう。口をもぐもぐさせながら、面倒そうに毛繕いをしている。
パーシヴァルは中庭へ降り、烏の正面に進み出ると、湿った土の上に跪いた。
「――八咫烏鴨武角身命殿」
イアポニア式の、古風で最上級の敬意を込めた呼びかけに、烏は身を固まらせたた。
「な、何!? 改まって。そんな風に傅かれたって、行かないよ?」
「……こちらをお納めいただきたい」
パーシヴァルがうやうやしく差し出したのは、一本の短剣だった。
それはかつて帝国軍を退けた戦功により、エルドリック王から直々に賜った褒賞。実戦用ではない、王家の威信を象徴する宝剣。
精緻を極めた金細工の鞘に、細かく散りばめられた宝石。そして柄の頭には、大粒のインペリアルトパーズが嵌め込まれていた。
シェリー酒のような深く透き通った色。内側からチラチラと揺らめく光を放つその石は、まるで結晶の中に永遠の炎が閉じ込められているかのようだった。
烏の瞳が、一瞬でぎらりと肉食獣のように光った。
烏は光り物に弱い。黄金も好きだが宝石はもっと好きだ。しかも炎の輝きを宿す石となれば猶更。
「……どうしたの、これ」
わざと平静を装うが、声が僅かに上ずっている。
「私が持っている物の中で、最も価値があるものです」
パーシヴァルは淡々と答えた。
説明されるまでもない。
国宝か、それに並ぶ芸術品であることは一目で分かった。
本来、城の保管庫に眠るようなお宝を、日用品のように身につけているパーシヴァルは異常だが、今ツッコむところはそこじゃない。
烏は腕を組み、しばらく唸った後、天を仰いで叫んだ。
「ちょっとさぁ! 女一人のために、これ差し出す!? 重すぎてむしろ引くんだけど!」
「クラウディア様は、怪我で満足に動けなくなった私を拾ってくださいました。主君であり、恩人であり……」
パーシヴァルは一瞬、言葉を探し、そして静かに続けた。
「……勝手ながら、妹のように想っている方です。彼女の安全には、万全を期したい」
烏は額を押さえた。
「……んもぉぉお! これで断ったら、ボク完全に悪役じゃん!」
宝剣をちらっと見る。欲は否定できない。だが、目の前の男の必死すぎる顔が何より癪だった。
またため息をついたかと思うと、小声で「だいたいさぁ……あの必死な顔。なぁにが妹だよ。これで無自覚とか」と、ぶつぶつ零している。
それでもどうやら行く気にはなってくれたらしい。
イブリムが旅支度を準備する間、パーシヴァルは厩へ向かった。
そこには、鬼の里からリァマまで不眠不休で走り続けた早馬が繋がれていた。
既に水と草はたっぷり与えられている。
パーシヴァルは人参を一本取り出し、馬の鼻先へ差し出した。
「すまん。申し訳ないが、もう少し頑張ってくれないか?」
首を優しく撫でると、返事をするかのように馬はヒヒンと鳴いた。
そして次の瞬間、首が取れて、馬は首と胴体に分かれた。
更に、さっき撫でてもらえなかった腹いせか、胴体の方が足を上げてパーシヴァルにアピールした。
さすがにパーシヴァルの眉が少しだけ動いたが、動揺はそれだけだった。
「ああ、ごめん。お前も疲れたよな」
パーシヴァルは真面目に謝って撫でさすってやる。
王都ではデュラハン――首なし騎士の伝説が有名だ。
だがイアポニアでは、馬の方が首なしらしい。
更には胴体無しの首だけ馬も。
パーシヴァルが首と胴体に対して、毛並みに沿って丁寧にブラッシングをすると、どちらも嬉しそうに身を寄せてきた。
その様子を見ていた烏が、叫び声一つ上げなかったパーシヴァルに少し感心する。
「首の方が“さがり”。下が“首切れ馬”。それぞれ別の妖だよ。どっちにしろ、鬼の里に返さなきゃだから、こいつらに乗っていくのは賛成」
そして、ひょいと鞍を差し出した。
「裸馬はきついでしょ?さっき街でナンパしてきたから、これ、使えば?」
パーシヴァルが一瞬「ナンパ?」と訝しんだが、烏の手にある鞍を見て心奪われた。
見事な作りだ。
木製の鞍骨。上質な革。精巧な彫刻。
パーシヴァルが手を伸ばすと、組紐がにゅるりと動き、腕のように伸びた。
組紐が「どうぞ」と差し出したのは馬用の鞭だった。
「これは“鞍野郎”って妖。自分の背に乗せるのに相応しい主人を探してるんだって。鬼の里まで、鞍にして連れてってやってよ」
その時、さがりと首切れ馬が再び合体した。
鞍野郎が合体した馬の背中へぴょんと登り、自ら器用に装着し、一瞬で立派な軍馬が完成した。
長旅の疲れを微塵も感じさせない様子で、馬は嬉しそうに足踏みしている。
早く乗ってくれと言わんばかりだ。
内心では馬が分裂した時点でテンパっていたパーシヴァルだったが、ここまで来るともうツッコミを諦めて、すべてを受け入れることにした。
いざ出発となったその時、旅支度と共にイブリムが一通の手紙を差し出した。
「招待したのに、肝心のクラウディア様がいないというのでは、来てくれた妖に対して不義理を働くことになります。すぐに予定変更について知らせねばなりません。少し寄り道にはなってしまいますが、まずは海宮にこれを届けていただけませんか」
イブリムがパーシヴァルに差し出した手紙を、横からソーニャが奪い取った。
「それは私が届けます。パーシヴァル様はクラウディア様の元へ急ぎたいでしょう」
イブリムが「しかし烏がいないと海宮の場所が――」と言いかけると、烏が手を振った。
「大丈夫。海宮は水中にあるから、水の妖が案内してくれる。コンタクトの取り方さえ分かれば、僕なしでも行けるよ」
そして付け加える。
「ただし――危険はあるよ」
ソーニャは迷わなかった。
「元より、私の命は公爵様に捧げています」
ソーニャの言葉に、烏は変な顔をした。
(え? クラウディアじゃなくて、パパの方? なんで?)
思考の迷路に入りかけた烏だったが、「まあいいや、人間って面倒くさいし」と投げ出した。
「……分かった。じゃあ、耳貸して」
小声で秘密を伝え始めた。
それは隠され、閉じられた場所、海宮へと至る道だった。
一人は空を飛ぶ烏と共に山へ。
一人は主への忠義を胸に海へ。
それぞれの想いが、嵐のように交錯し始めていた。




