第38話 絵師ルネ
「遅くなっちゃってごめぇん! お土産買ってきたから許し……」
勢いよく開け放たれた障子の先で、朗々とした声がぴたりと止まった。
「……って、あれ? お客さま?」
そこに立っていたのは、大輪の花のような人物だった。
牡丹に唐獅子の意匠をあしらった緋縮緬の打掛。衣紋を婀娜っぽく大胆に抜いた着こなしは、見る者の目を惹きつけて離さない。伊達兵庫に結い上げた見事な髪には、これでもかと言わんばかりに簪がひしめいている。
吉原の花魁さえも道を譲りそうな、完成された華やかな美貌。
――だが、発せられた声は、低く心地よいテノールだった。
「ここに女中さんが来るなんて珍しいわねぇ。新人さん? うわ、めっちゃくちゃ綺麗な子じゃないのぉ!」
その奔放な物言いに、部屋の隅で固まっていた石蕗が、ついに決壊した。
「ルネ!! お前、今までどこをほっつき歩いてたんだよ!! お前のせいで俺が、俺が……!!」
普段は蚊の鳴くような声しか出さない石蕗の絶叫に、ルネと呼ばれた人物は首を傾げる。
「どうしたのよ石蕗?」
「お前のせいで、俺がおクラちゃんに変な目……変態の目で見られたんだよ!!」
「へぇ、おクラちゃんって言うんだ。可愛い名前ねぇ」
完全に、暖簾に腕押し。ルネは石蕗の抗議を右から左へ受け流し、獲物を見つけた猛獣のような爛々とした瞳でクラウディアにじりじりと詰め寄った。
「人間よね? どこから来たの?」
「どこから来たも何も、お前の――」
「……あれ? わたし、なんか、この娘のこと……見たことある気がするんだけど」
マシンガンのように喋り続けていたルネが、ふと動きを止めた。
至近距離でクラウディアの顔をまじまじと見つめ、その瞳の奥に、王都の煌びやかな夜会で見た“何か”を見出す。
「……漆黒の髪。新緑を溶かしたようなエメラルドの瞳。……あ!」
突然の叫びが、狭い書斎に響いた。
「クラウディア・リーベル公爵令嬢!?」
クラウディアの心臓が、跳ね馬のように脈打った。誰も自分を知るはずのない場所で本名を呼ばれたのだ。
クラウディアは即座に警戒の視線を向けた。
《誰だ、こいつ?! 身分、名前、何でもいい。早く思い出さないと……》
ジャスパーがクラウディアの記憶を検索する。
コーラルピンクの髪、若草色の瞳。口元には色気を強調するような小さな黒子。
公爵令嬢としてのクラウディアを知っているということは、どこかの家門の貴族なのだろうが、これほど美しい令嬢を記憶していないはずはない。
クラウディアの訝し気な視線を感じたのだろう。
ルネは先ほどまでのハイテンションから急速にギアチェンジをして、静かな微笑みを浮かべた。
そして――
シュルシュル、と小気味よい音がした。
いきなり帯が解かれ、重厚な打掛が床に落ちる。
髪に何本も刺さっていた松葉の簪を無造作に引き抜き、結い上げた髪をバサリと下ろした。
唇と目元を彩っていた紅を、手拭いで無造作に拭う。
そして右足を引いて、左手を横方向へ水平に差し出す形でのお辞儀をした。それは紛れもなく王国の宮廷作法に則った礼。
魔法が解けたかのように、そこには中性的な美しさの青年が立っていた。
「大変失礼をいたしました。私はルネ・ゲルトナーと申します。王国では貴族の末席を汚しております。以前、夜会でお見かけしたことがあり、不躾にも御名前を口にしてしまいました。どうかお許しください」
再びクラウディアの記憶の迷宮が、静かに回転する。
――ゲルトナー伯爵家。
武功ではなく、芸術への比類なき貢献で叙爵を受けた稀有な家系。
現伯爵の三男ルネ。
放浪癖があり、社交界からは姿を消したと噂されていた“美しき自由人”。
「……ルネ様。ゲルトナー家の御三男でいらっしゃいましたね。こちらこそ、すぐに気がつかず申し訳ありませんでした」
「なんと。私のような放蕩者を覚えていてくださったとは」
ルネは目を丸くし、それから少年のように屈託なく笑った。クラウディアも、ようやく強張らせていた肩の力を抜く。
「そのように畏まらなくて結構ですわ。ここでは、私はただの『クラ』ですから」
「クラウディア様はその……どうして偽名で女中に身をやつしておられたのでしょう?」
クラウディアはイブリムの忠告について説明した。
真名は力を持つので、軽々しく明かしてはならないと。
ルネは頷いた。
「なるほど。確かに、それが命取りになることもあります。ただ鬼については問題ありません」
「そうでしたか……。それでは、黙っていて悪いことをしました」
「き、気にしなくていいよ!みんな怒ったりなんかしないと思う!」
突然の来訪にも関わらず、ずっと親切にしてくれた鬼たちに不義理をしてしまったと詫びるクラウディアを、石蕗は辿々しい言葉で懸命に慰めた。
その必死さにクラウディアは少し笑った。
「ところで、ルネ様は何故イアポニアに?」
「下手の横好きが高じて、画家の真似事をさせていただいております。美しい景色を求めて王国中を放浪し、イアポニアに辿り着いた次第で御座います」
芸術は国境も、そして種族さえも超える。
その日の食事や宿と引き換えに、時にはワイン1杯を報酬として絵を描く流しの絵描きとして、所領を渡り歩いた。その話術と持ち前の人懐こさは、イアポニアでも通じた。
リァマの妖たちの評判になったルネは、他の隠れ里にも招かれるようになって、今に至る。
「鬼の里も当初は一時的な滞在の予定だったのですが、石蕗とは妙に波長が合いまして。私が石蕗の物語に挿絵を描く代わりに、私の絵に石蕗が物語を作るという具合に、共同制作で本を作るようになりました」
元々は油絵で風景画を描いていたルネだったが、旅ではお世話になった人の似顔絵を、その場で仕上げられるよう、クロッキーを作成するようになった。
簡単な線画を描き散らすうちに、識字率の低い庶民でも読める、大人向けの絵本とでもいうべき娯楽作品を創りたいと思い至るように。
床に撒き散らされた文は、ルネの絵に沿った話を石蕗が執筆最中だったらしい。
クラウディアが一部読んでしまったことを話すと、
「そ、それは完全に個人的な趣味と言いますか、二次創作でして! とんだお目汚しを……!」
ルネはさすがに耳まで赤らめた。石蕗に至っては、絶望のあまり石のように固まっている。
しかし、当のクラウディアはというと、先ほどの文章の続きが気になって仕方がなかった。
ルネが描く鮮やかな線と、石蕗が紡ぐ情熱的な(情熱が過ぎる)物語。2人は、イアポニアの豊かな色彩と、古代の英雄譚を、新しい娯楽へと昇華させていたのだ。
クラウディアは、床に落ちたままの原稿をじっと見つめ、それから優雅に、しかし逃げ場のない微笑みを二人に向けた。
「ルネ様。石蕗様。……その作品、後でゆっくり読ませていただいてもよろしくて?」
「「…………えっ!?」」
石蕗は、一欠片残っていた尊厳が霧の中に消えていくのを悟った。




