第37話 石蕗と汚部屋
「申し訳ないんだけどさ、この朝餉の膳、石蕗の部屋に届けてくれるかな」
紋女がいつもの気軽な調子でそう言うと、クラウディアは「はい、かしこまりました」と返事をし、両手で膳を抱えた。
香ばしく焼かれた豚の生姜焼きに、湯気の立つ味噌汁。数種類の小鉢が並ぶ、温かい朝の食事だ。
女中用の着物を着たクラウディアが母屋の縁側を、背筋を伸ばして歩いていく。朝の空気はまだ剃刀のように鋭く冷たく、庭の木々の葉がさらさらと触れ合う音が、静寂の中に吸い込まれていった。
クラウディアの背中が角を曲がって見えなくなったのを確認すると、給仕をしていた女中が声を潜めて質問した。
「奥様……坊ちゃん、朝はいつも召し上がらないのでは……?」
紋女は一瞬きょとんとした後、肩をすくめて笑った。
「あー、まぁね」
そして腕を組み、ため息混じりに続ける。
「いや、だってさ。アイツ、ずっとおクラちゃんのこと、遠くから覗いてるだけなんだよ」
「覗いて……」
女中は思わず聞き返した。紋女は指で柱の影を示す仕草をする。
「働いてるとこを柱の陰からチラチラ見てさ。話しかけもしないで」
女中は思わず苦笑した。あの引っ込み思案の石蕗が、そんな分かりやすいことをしているとは。
紋女は悪戯を思いついた子供のような顔で言う。
「このままだとさ、ただの不審者だろ?」
「それは……まぁ……」
否定はできない。女中は思わず苦笑した。
「だから、いいキッカケになればと思ってね」
「ああ……なるほど」
女中はようやく事情を理解して頷いた。――母親なりの、後押しというわけだ。
「部屋に朝餉を持ってきてくれたらさ。さすがに会話くらい、発生するだろ。」
紋女は悪戯を思いついた子供のような顔でくすくす笑った。
◇
母屋の東側。中庭を横切り、中門をくぐった先に、離れのような小さな建物がある。そこが石蕗の部屋であり、書斎であり、そして同時に――引きこもり用の“巣”でもあった。
クラウディアは縁側に立ち、障子越しに中の様子をうかがったが、物音一つしない。
「……まだ、お休みなのでしょうか」
中には入らず、縁側に膳を置いていこうかとも思ったが、野生の鳥や猫に荒らされる懸念がある。
クラウディアは意を決し、軽く声をかけた。
「石蕗様。朝餉をお持ちしました」
返事はない。
クラウディアは「失礼いたします」と、そっと障子を開けた。
「……すごい」
その光景に、クラウディアは思わず息を呑んだ。
部屋の中は、棚から溢れ出した書物が床にまで山脈を築き、書きかけてくしゃくしゃに丸められた紙が雪のように散乱している。
その中心で、片袖の文机に突っ伏したまま、石蕗が泥のように眠っていた。
髪はぼさぼさ。筆を握ったままの手は、乾いた墨で黒く汚れている。
どうやら、朝日が昇るまで一心不乱に筆を動かしていたらしい。
机の端に膳を置こうとした際、足元に散らばった紙が気になった。
踏んでしまいそうなそれをそっと拾い上げ、束ねようとした瞬間――
その、几帳面な文字で綴られた内容が視界に飛び込んできた。
そこには、イアポニアの伝承で有名な英雄たちの名前が並んでいた。
桃太郎。そして、金太郎。
どちらも動物たちを従え、鬼を退治する、子供たちの憧れの英雄だ。
だが。その後に続く文章は、教育上きわめてよろしくない内容だった。
【桃太郎は金太郎の後ろから、露わになった逞しい胸に手をかけ、耳元に熱い囁きを落とす。濡れた舌が首筋を舐め上げると、鍛え抜かれた金太郎の胸板――雄っぱいが、びくりと震えた――】
クラウディアの思考が、突如として停止した。
《……え? 桃太郎って、あの、桃から生まれた奴? なぜ金太郎と……?》
混乱する彼女の視線が、さらに隣に落ちた紙へ吸い寄せられる。そこには、逞しい男たちが肌を寄せ合い、まぐわっている精緻な挿絵が描かれていた。
本来出会うはずのない英雄同士の、禁断のクロスオーバー。そして、究極の愛のフュージョン。
《え、ぇえええ――っ!?》
慌てて周囲を見渡せば、別の紙には手を取り合う美少女たちの絵、あるいは男女が情熱的に抱き合う絵……。
様々な物語の人物が、石蕗の筆によって“新たな関係”を構築されていた。
その時、机の上で石蕗が身じろぎした。
クラウディアは雷に打たれたように原稿を放り出す。
ぱさり。
その物音に、石蕗の意識が覚醒した。
「……へ……?」
ぼんやりとした瞳が、ゆっくりと焦点を結んでいく。
「……え? お、おクラちゃん……?」
そして。石蕗の視線が、クラウディアの足元に散らばった“英雄たちの絡み”へと落ちた。
彼の顔色が、一瞬で紙よりも白くなり、次の瞬間に茹で上がった蛸のように赤くなった。
「……あ」
「え」
「え」
部屋を支配する、地獄のような沈黙。
クラウディアが真っ赤な顔で、慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません! 勝手に入って、その、拾おうとして……!」
「お、おおおおお俺のじゃない! 違うんだ! それは違うんだおクラちゃん!」
飛び起きた石蕗の叫びは、もはや悲鳴だった。
腰まで届く癖毛を振り乱し、墨のついた手で必死に原稿を掻き集めようとするが、その必死さが逆に秘事を強調する結果となっている。
「文を書いたのは確かに俺だけど! でもこれは俺の趣味じゃなくて! 絵は! 絵は別の奴が描いてて! その、俺はただ、発注された絵に合わせた物語を構成していただけであって――!」
完全にパニックに陥り、支離滅裂な言い訳を並べる石蕗。
しかし、そのパニックを嘲笑うかのように、さらなる“嵐”が部屋を襲った。
反対側の障子が、景気よく勢い任せに開け放たれる。
「たっだいまぁ!! 石蕗、原稿進んでるぅ!?」
部屋の空気を一変させる、爆風のような声が響いた。




