第36話 茶室と泰山
「旦那様、ですか?」
石蕗を産んでいるのだから、夫がいること自体は別におかしな話ではない。
しかしここへ来てから、紋女の夫らしき人物の姿を見た覚えがなかったので、クラウディアは不思議に思った。
屋敷へ戻ると、紋女は西の庭へ案内した。
飛び石が配された露地の脇には紅葉と松が植えられ、蹲の周りには瑞々しい苔が生えている。
茶室は3畳ほどのコンパクトな草庵だった。
二人は、にじり口と呼ばれる約70センチ四方の小さな入口から中に入った。
クラウディアは問題なかったが、身長が2メートル優に超えるガチムチの紋女にとってはかなりきつい。
「狭いだろ? でも誰でもこうして身を低くしないといけないことで、この場所では身分差を取り払おうって意味がある。あと、こんなに狭いと武器を持ち込めないだろ? 茶道が生まれた戦国時代、この場所だけは平和であるようにって願いもあるんだってさ」
中に入った後も、小間の天井は低く、紋女は窮屈そうに身をかがめた。
紋女の夫だからと、勝手に巨躯の男を想像していた。
しかし、台目切の炉の近くにいたのは、身長160センチほどの、痩躯で白髪交じりの初老の男だった。
《あれ、なんか、思ったより、小さい?》
そして男の額には角がなかった。
《……人間……!?》
驚く間もなく、紋女に促されて、正客であるクラウディアは床の間の前――一番眺めの良い場所に座った。
床柱は椿皮付中曲りの丸太。
畳より一段高い床の間には水墨画の掛け軸と花が飾られ、竹連子の窓からは庭の草木が見えるようになっている。
男は落ち着いたトーンの、静かだがよく通る声で言った。
「よくおいでなさいました。泰山と申します」
茶の湯が始まる。
本来であれば、季節の会話から始まり、床の間の美術品を鑑賞したりといった、茶の湯の作法通りに振舞う必要がある。
だが紋女が、
「そんなこと気にしながらじゃぁ、せっかくのお茶と菓子の味なんか分かんなくなるよ。それにお菓子はお茶と一緒に食べたほうが美味しいしさ」
と、いきなりラフにくつろぐので、クラウディアもそれに倣った。
おそらく作法を知らないクラウディアに対する、紋女なりの気遣いだったのだろう。
濃茶を点てた後に薄茶を供するのが一般的であるが、抹茶に慣れていないであろうクラウディアのために、最初から薄茶を点ててくれているのは泰山の心配りによるものだ。
鮮やかな緑色できめ細かく泡立てられた薄茶は、青く清しい香りで、舌触りは滑らか。
最初に感じる苦味や渋みの後に、自然な甘みが広がる。
甘い和菓子と相まって、一口ごとに違う風味になった。
初の抹茶と練り切りに舌鼓を打つクラウディアをよそに、夫婦の会話が進められていく。
「アレは、その、息災か?」
「あれって?」
「分かるだろう!……その……石蕗だ」
「あぁ、石蕗? もちろん、いつも通り元気に引きこもってるよ」
「……そうか。元気なら、それでいい」
「たまには母屋にご飯食べにおいでよ。石蕗の顔、見てやって」
「……分かった……考えておく」
「うん……きっとだよ。楽しみにしてるから」
茶室という非日常の空間でのくつろぎは、クラウディアにとって異文化の、非常に得難い経験だった。
お茶を堪能して、茶室を後にした道すがら、紋女が声をかける。
「驚いたかぃ?」
「はい」
「旦那はね、昔この地に住んでいた人間の末裔なんだ。ああ見えて恐ろしく強くてねぇ。アタシはすっかり惚れこんじまった」
紋女は少し照れくさそうに笑った。
「あの人、最初は面食らってたんだけど、長年押しに押しまくって、なんとか口説き落とせたよ。幸い、子宝にも恵まれた」
いつもは明るい紋女の声のトーンが、「でもさ……」と急に一段落ちる。
「石蕗はね、人間とのハーフってのが、嫌みたいなんだ。アタシがこの巨角なのに、あの子、貧角だろ?」
紋女は苦く笑った。
「別にそれはハーフに生まれたからってわけじゃない。それに、大きい角は確かに見栄えはするだろうが、ただそれだけだ。だけど、あの子はそうだと思ってる」
元のクラウディアも同じだ。
ニィナのように小柄で華奢で、女性らしい丸みを帯びた体でないと愛されないと思い込んで、努力してもそれが手に入れられない自分のことが嫌いで。
コンプレックスがさらにクラウディアから表情を奪っていた。
クラウディアも石蕗も、周囲から押し付けられる“こうあるべき”という理想像が固定観念として染みつき、それがいつしか呪いのようになっていたのかもしれない。
「だから同じ屋敷に住んでいても、あの子は離れの自分の部屋に閉じこもって、父親とは顔を合わせようとしないし、口も利かない。それが分かってる泰山も、できるだけ共用スペースには立ち入らないようにしてる」
紋女はため息をこぼした。
「あの子がいるだけで、愛しくて嬉しくて、何でも出来るって思うよ。泰山だってそう思ってるのに……難しいね」
「私も……事情があって、父とは長年疎遠だったんです。つい最近になって、お互いのことを正直に話し合えました。だからお二人も、何かのきっかけがあれば……」
「……おクラちゃん、ありがとうね」
感極まった紋女が、クラウディアを抱きしめる。
紋女の大きな胸に包まれると、くすぐったいような、泣きたいような、よく分からない感情に飲まれた。
ジャスパーの種族は雌雄の別はなく、優秀な能力を持つものだけが核細胞の分裂により増殖する。自分を作ったのは単なるコピー元でしかなく、親子などという概念も情もない。
元のクラウディアとて母親の記憶はほぼなく、想像に過ぎない。
だが――こうして大きく温かく、柔らかいものに包まれると、母というのはこういうものだろうかと、ジャスパーは思った。




