第35話 鬼の稲作
リァマの街から飛ばされてきたこの武家屋敷は、土塀で囲まれた広大な敷地の中に建てられていた。
厚く塗られた白い土塀の内側には、いくつもの建物がゆったりと配置されている。
表は執務や来客のための場所。
裏は家族や使用人のための生活の場所。
中庭は屋敷の心臓だ。
庭には白砂が敷き詰められ、槙や松が丁寧に手入れされて植えられている。
季節ごとに咲く草花もさりげなく配されており、春には椿、夏には青もみじ、秋には紅葉が庭を彩る。
表裏を含めた四方の部屋がこの庭を囲み、障子を開ければどの部屋からも庭が見える。
朝の光、昼の風、夕暮れの影、夜露に濡れる石。
屋敷の中にいながら、常に季節と共に暮らせる工夫だ。
朝、中庭へ突き出した形で設けられた厨では、炊きたての米の湯気が立ちのぼっていた。
ぐつぐつと音を立てる大釜。
五徳猫が火を入れた囲炉裏では、魚がじゅうじゅうと脂を弾きながら炙られている。
香ばしい煙が、朝の空気に溶けて漂っていた。
忙しく朝餉の采配を取っていた女中は、戸口に立っていたクラウディアを見て驚いた。
「おはようございます、クラ様。朝餉の準備はまだですので、お部屋でお待ちいただければ……」
「おはようございます」
クラウディアは頭を下げた。
「あの、もしご迷惑でなければ、お手伝いしたいと思いまして」
「そんな! お客様に手伝わせるなど」
女中は慌てた。
だがクラウディアは少し困ったように微笑んだ。
「お世話になっているのに、ただ座っているだけなんて、なんだか落ち着かなくて。お邪魔にならないようにしますから」
イブリムの忠告が頭の中に残っている。
何かをしてもらったら、必ず返す。それがこの世界での礼儀だと。
だが、それだけではなかった。
ここにいるのはクラウディア・リーベル公爵令嬢ではない。
おクラという町娘だ。
普通の人間として振舞える、またとない機会。万一、貴族という身分を無くした時でも逞しく生きられるよう、この状況を利用しない手は無い。
クラウディアは女中着を借り、見様見真似で配膳を始めた。
湯気の立つ味噌汁。
皮がぱりりと焼けた鮭。
きゅうりと壬生菜の漬物。
そして炊きたての米。
主菜副菜を盆に並べ、順に奥座敷へ運んでいく。
座敷に膳を置くと、紋女が、目を丸くして驚いた。
「おクラちゃん、その恰好どうしたんだぃ?!」
「私が無理を言って、働かせてもらっています」
「やめとくれよ、客人にそんなことさせられないよ」
クラウディアがお櫃の蓋を開けると、ふわりと甘い湯気が立ち上る。
木杓子でご飯をよそい、茶碗を紋女へ差し出した。
「ここにいる間、自分の食べた分くらいは、何かで返したいのです」
それを見ていた桔梗が、胸に手を当てて感嘆した。
「まぁぁぁ……なんという心根の良い娘御でしょうか……!奥様、婆は、婆は嬉しく存じます!」
小さな肩をぶるぶると震わせる。
「働き者!器量良し!気立て良し!所作も良し!これはもう決まりにございまするな!」
「何が決まりなのさ?!」
「嫁御にございます!」
「いや、だから、違うって」
「やはり坊ちゃまの嫁御はこの方しか!朝餉の支度を自ら進んで手伝うなど、良妻賢母、間違いなしにござりまする!」
こうなってしまうと、桔梗の嫁取りフィーバーの加速を誰も止められない。
クラウディア自身が明確に否定しないのだから仕様がないと、紋女は訂正を諦め、このまま見守ることに決めた。
朝餉の後は食器洗い、洗濯、掃除。
水仕事は手が荒れるからと桔梗に止められたが、クラウディアはとにかく何でもやってみたかった。
これまで衣食住のほとんどを人の手に任せていた。誰かに世話されないと生きられないのでは、こうして1人でどこかに放り出された時のリスクが高い。
また自分で出来ることが増えるというのは、それだけで単純に嬉しかった。
そうして3日ほど過ぎた頃、紋女が声をかけた。
「これから田圃見に行くんだけどさ。おクラちゃん、一緒にどう? お昼は外で食べようよ」
紋女はおにぎりを竹の皮に包んだ弁当を振って、快活な笑顔をみせた。
屋敷から10分ほど歩いた場所には、見渡す限りの水田が広がっていた。
空を映す水面の中に、青々とした稲が整然と並んでいる。
紋女は誇らしげに言った。
「ここら一帯がウチの田圃。何はなくともウチらは米がないとだからさ。畑も狩りもやるけど、やっぱり米は特別なんだよね」
はるか昔、イアポニアでは領地の広さを石高で表したという。
一種類の作物で国の力を量るなど、他の国では例を見ないやり方である。
それほど古代イアポニア人にとって、米は単なる主食という以上に特別な作物だったのだろう。
クラウディアと紋女は広い畔に腰を下ろした。
紋女が大きな手で握ったおにぎりは、通常の3倍は大きい。両手で持って齧り付くと、ぎゅっと詰まった米の塊が口の中でほろりと解けた。
《ただ塩をつけて握っただけなのに、なぜこれほど旨く感じるのか……》
米一粒には7人の神が宿ると言われている。
水。土。風。虫。太陽。雲。そして作り手。
作り手は88の手間をかけるというのだから、それはもう大変な作業だ。
その努力に報いるように、米は甘く、優しく胃を満たしていく。
夏は蒸し暑いイアポニアだが、水を張った田んぼに整然と並ぶ青々とした稲は、目にも涼しい。
水田を通った爽やかな風がクラウディアの頬を撫でた。
見たことのない景色のはずなのに、なぜだか懐かしいような気持ちになる。
クラウディアは水田の水に手を入れた。
その瞬間、末端組織から分析情報が流れ込む。
「……紋女さん。もしよければ試していただきたいのですが。土に生石灰を撒いてみてください」
紋女が首を傾げた。
「生石灰?」
「白くてゴツゴツした石がこの近くで取れたりしませんか? 無ければ貝殻や珊瑚でも大丈夫です。それを窯で焼いて砕いたものを田圃や畑に撒くと、土壌の改良になり、収穫量が増えるんです」
石灰はカルシウムを含む無機化合物の総称で、生石灰は酸化カルシウムを指す。
炭酸カルシウムを含む石灰岩や貝殻を石灰窯で強加熱すると、熱分解で二酸化炭素を放出し、アルカリ性物質の酸化カルシウムを生ずる。
イアポニアは雨が多く、土が酸性に傾きやすいため、生石灰で土壌のpHを整えると植物が育ちやすくなる。
また、植物が必要とするミネラルを補うことも出来るのだ。
「へぇ……すごいね。どこでそんな知識つけたんだぃ?」
「昔、書物で見たことがあって……」
紋女はカカカッと豪快に笑った。
「おクラちゃんみたいなお嬢様が農業に詳しいとか、面白いねぇ!」
そして言った。
「いいこと教えてくれたお礼に、お茶をご馳走するよ。旦那に入れさせるからさ」




