第31話 記憶の宮殿と異物
烏がその黒い翼で空を裂き、招待状を携えて飛び立ってから、4日が過ぎた。
だが、空を見上げても、返信を告げる羽音も、使いの気配も未だにない。
リァマの結界の外で、人間が安全に出歩ける場所は極めて限られている。
目に見えぬ結界の綻び。
強力な妖の縄張り。
そして人の子が立ち入ってはならぬ不可侵の聖域――
それらを正確に把握せぬまま安易に足を踏み出すのは、霧の深い崖を全力で駆けるような、自殺行為に等しかった。
そのためクラウディアはこの待ち時間を利用し、イアポニア領管理事務所の地下へ潜っては、妖に関する資料を片端から読み漁っていた。
地下図書館は、地上の喧騒を拒絶するようにひんやりと沈まり返り、古い紙の繊維と、枯れた墨の匂いが重く漂っている。
歴代の管理人たちが、良き隣人との交流の中で心血を注ぎ書き留めてきた記録は、膨大な数の巻物や冊子となって、天井まで届く書架を埋め尽くしていた。
それは、単なる事務的な報告書ではない。
もちろん、無知のまま外へ出るには危険すぎるこの土地で、生き延びるために必要に迫られてまとめられた実用的な側面もあるだろう。
だが、時折現れる拙い挿絵――火を吹く獣や、笑う樹木――と共に記された文面には、公文書の筆致では収まりきらない奇妙な熱が宿っていた。
書き手たちが妖を恐れながらも、同時に、親しみや畏敬を抱いていたことが伝わってくる。
水棲、陸棲、空棲。
動物、植物、あるいは意志を持つ無機物や、意志そのものと化した自然現象。
万物に魂が宿るという八百万の概念は、西洋的な分類という傲慢な枠組みを嘲笑うかのように、際限なく広がっていた。
イブリムの言う“各界の妖の長”とて、絶対的な支配者ではない。
あくまで人間側が交渉を円滑にするための便宜上の窓口。
陸・水・空に大別し、対話が可能な代表を立てているに過ぎないのだ。
群れでしか生きられない脆弱な人間とは違い、彼ら妖にとって、王など必要ないのかもしれない。
他界からの侵略や、天地を覆すような大災害でも起きない限り、彼らが種族の垣根を超えて一つとなる必要がないのだから。
地下図書館には難解な専門書だけでなく、民間に伝わる様々な書物も収められていた。
特にクラウディアの目を引いたのは、簡易な文と鮮やかな色彩の挿絵で構成された子供向けの絵本だった。
桃太郎、金太郎、浦島太郎。
一寸法師にこぶとりじいさん。
カチカチ山、分福茶釜、かぐや姫――。
これらは漢字が少なく、古代イアポニア語の独特な節回しを学ぶのにも最適だった。
しかも、子供向けの教訓を含みつつ、純粋に物語として面白い。
読み進める中で、クラウディアはある顕著な傾向に気づいた。
物語における鬼の登場頻度が、他の妖に比べて異様に高いのだ。
「鬼は元々“オヌ(隠)”が語源とされています。姿の見えぬ超常的な存在を指す言葉でした」
隣で書架に背を預けながら、イブリムが静かに解説を添える。
「病、災害、飢饉。人の力が及ばぬあらゆる不条理は、すべて鬼の仕業とされた時代もあったとか」
鬼は厄災の象徴である一方で、強大な力で悪霊を祓う守護者として語られることもある。
鬼神として畏怖され、祀られる例も少なくない。
それは単純な“善悪”という二元論では切り捨てられない存在だった。
「昔話における凶暴な鬼は、英雄譚という劇を成立させるために、悪役の役割を担わされているに過ぎないのでしょう」
それは、王国の童話における狼と同じ構図だ。
赤ずきん、あるいは狼と7匹の子やぎ。
一度その枠に嵌められれば、恐怖の象徴としての印象だけが独り歩きを始める。
「人間が恨みや憎しみによって鬼に変じたという説話も数多くあります。それほど、生物としての根源が人間に近いのでしょう。各地の民話で描かれる姿がほぼ共通している点から見ても、人前に現れる頻度が高かった――つまり、人間に対して友好的、あるいは共生関係にあったと考えられます」
クラウディアは手元の絵本を閉じ、小さく頷いた。
◇
ジャスパーは、クラウディアが得たこれらの膨大な知識を、脳内で本の形にして整然と整理していく。
記憶の宮殿の地図は常に書き換わっている。
生存に必要な情報は、地上に近いアクセスしやすい階層へ。
もはや不要となった過去の残滓は、より深い忘却の階層へと沈めていく。
例えば、王都の傲慢な貴族たちの顔と名――おそらく二度と関わることもないであろう彼らの記憶は、静かに宮殿の最下層へと追いやられていった。
また思考と環境の激変に応じ、その迷宮は形を変えつつある。
これまでの宮殿は、厳格なゴシック様式だった。
冷徹な大理石の回廊に、煌びやかながらどこか刺々しいシャンデリア。
だが今、その景色は劇的な変貌を遂げている。
重厚な木の梁。温もりのある土壁。どこからか漂う乾いた草の匂い。
自然と調和し、静寂を重んじるイアポニア風の意匠。
ここへ来て、まだ1か月も経っていないというのに、このぬくもりある建物が魂の奥底で落ち着くのを感じていた。
畳の部屋。障子越しに差し込む、柔らかな和紙の光。
縁側、枯山水の庭。池に尾を振る、鮮やかな緋鯉。
そう鮮明に思い描き、脳内の景色を塗り替えた、そのとき――背後で、パタパタと小さな足音が走り抜けた。
ジャスパーは反射的に振り返る。
……誰もいない。
ここはクラウディアの脳内に構築された閉鎖空間。
もちろん、管理者である自分以外が存在するはずがない。
気のせいか、と再び思考を巡らせようとした、その瞬間、さらり、と絹が擦れる衣擦れの音。
次いで、畳を優しく踏みしめるような、柔らかな足音が遠ざかっていく。
《……間違いない。ここに、俺以外の何かが入り込んでいる》
それは収集した知識の具現か。
彼女の強すぎる想像力が見せた幻影か。
それとも、この土地の持つ霊性が、彼女の精神世界にまで浸食してきたのか。
遠く、脳内の廊下の向こう側で。
チリン、と冷たく澄んだ風鈴の音が鳴り響いた。




