第32話 夜店のゲート
リァマの街は昼夜を通して騒がしい。
客引きをする声、道ゆく者たちのお喋り、何かの肉を包丁で叩き切る乾いた音、グツグツと煮える湯の泡立つ音。
そこかしこから嗅いだことのないハーブの香りが立ち昇り、香辛料の煙が夜気に溶け込んでいる。
たくさんの種族で賑わう通りには、客の千差万別のリクエストに応えるための店がひしめき合っていた。
夜行性の妖が多いからと、店は深夜でも閉まることがない。
提灯お化けの灯りが揺れ、店の影が石畳に伸びる。
湯気と煙、笑い声と足音が混ざり合うその空間は、まるで巨大な生き物の腹の中にいるようだった。
エネルギーに満ち溢れた空間は、その場にいるだけで陶然とするような、生の熱気で酔う感覚をもたらす。
おそらく、王都にも似たような場所はあったのだろう。
だが箱入りであったクラウディアは、家と学園と王城しか知らない。そして当然ながら、ジャスパーも同じ程度の景色しか知らなかった。
夕食後、夜市の散策をするのがクラウディアの日課になっていた。
食いしん坊としては、屋台の食べ物にも興味津々である。
何の肉なのか分からない串焼き、香ばしい香りの揚げ菓子、いつまでも冷めない蒸し饅頭。紫乃作のブロック氷を、ナマハゲが鎌でショリショリと細かく削ったカキ氷――
だがそれらを食べることは、イブリムに固く禁じられている。
「人間にとって毒になる食材かもしれないのは言うまでもございませんが、“黄泉竈食ひ”の例もございますので」
妖には妖のルールがある。
黄泉の国の食べ物を食べてしまうと、二度と地上には戻れなくなる。そんな昔話のようなことが、妖の世界では本当に起こるのだという。
何が災いとなるかは分からない。
よって屋敷でクラウディアたちのために調理された食事以外は、口にしないのが無難ということらしい。
イブリムの講義はさらに続く。
「基本的に、こちらが何かをして差し上げたときに、お返しを受け取るのは構いません。けれど最初からお返しを期待して行動するのはいけません。もしお返しを貰いすぎたと思ったら、その分感謝の気持ちを返しましょう。ただ、こちらが奉仕する分にはどれだけたくさんやっても大丈夫です」
恩には恩をもって。
仇には仇を。
妖のルールはひどく明確だ。
「何の気無しにした約束を忘れて破る、真名を明かすなど、種族によってはほんの些細なきっかけで災いが降りかかることもあります。くれぐれも軽はずみなことはされませんように」
事務所地下の書物は膨大で、まだ読み切れていない。
妖についてのすべての知識を入れるまでは、街を出歩くのも危険なのかもしれない。
だがクラウディアは、自分が統治する領地を父のように自分の目で見たいと思っていた。
この街の活気を見れば、イブリムたちが優秀なことは分かる。
だがそれでも管理人に丸投げするのでは、他の貴族と変わらない。
善政を敷くためには、領民の生の声を聞かねばならない。
治安自体は悪くないし、夜まで付き合わせるのは心苦しいからと、護衛は断ったのだが、パーシヴァルとソーニャはいつも付き添ってくれた。
屋台に並ぶのは食べ物だけではない。
寄木細工の絡繰箱、漆器のボンボニエール、蒔絵螺鈿の簪、黄楊で作った櫛。
色とりどりの絵が華やかな飾り扇子から、何かしらの呪具と思しきおどろおどろしい物まである。
売り子の元気な客寄せの声に足を止めて、クラウディアは品物を一つ手に取った。
「パーシヴァル卿。これは何に使うものかしら?」
「へぇ、これはすごいですね。なんて繊細な細工だ」
「おや、お客様、目が高い! それは象牙の形彫根付ですよ」
身なりからして上客になりそうなクラウディアに、店主がすかさず声をかけた。
「ネツケ?」
「巾着を帯に吊るす時の留め具ですよ。形彫根付の他にも、柳左根付、差根付、饅頭根付なんかもあります」
店主は箱を次々に開ける。
「うちの一番の売れ筋はこの鬼の面根付です」
クラウディアはそれを手に取った。
くわっと口を開いた鬼の面は、二本の角と肌の部分とで質感が変わるように彫り分けられており、細い線で絵付けまでされている。
こんなに小さいのに、立派な芸術品だ。
金銀の価値はどの国でも変わらないため、通貨は王国の貨幣がそのまま通じる。
クラウディアは緻密な細工が施された鬼の面根付を一つ購入した。
郷に入っては郷に従えで、リァマでは着物を着用するようになったクラウディアは、帯や簪など、イアポニアならではの装飾小物の種類の多さ、造形の美しさ、職人の卓越した技術に感嘆していた。
《これは間違いなく、商売になる》
クラウディアの頭の中でジャスパーが計算を始める。
長い歴史で培われた文化と技術こそ、かつて黄金の国と呼ばれたイアポニアの価値そのものだった。
《流行る。絶対流行る》
身につけるべき人間がそれらを纏い、華々しく社交界で紹介すれば、デビュタント前の少女から棺桶に片足を突っ込んだ老婦人まで、こぞって欲しがるに違いない。
だが問題は、この品を作っているのは妖ということだ。
この素晴らしい品物を公にすることは、それを作った妖たちにスポットライトを当てることと同義である。誰もが興味を示す技術を持つ職人を秘匿することは難しい。
隠れ里の妖たちを、表舞台で活躍させることは出来るだろうか。
いや、そもそも妖たちはそれを望むのか。
古代イアポニア人のように、王国民を良き隣人と思ってもらえなければ交流は成立しない。
決して持ち出せない宝の山を前に歯噛みをしながらクラウディアが思案を巡らしたとき、急な雨が襲った。
湿気の多いイアポニアでは、驟雨はつきものである。
「ここでお待ちを。傘を探して参ります」
ソーニャが言う傘とは、“傘化け”のことである。
竹骨に油紙などを張った傘に、一つ目と人型の手足がついた妖で、こんな急な雨の日に、うっかり傘を持たずに外へ出てしまった者の前に現れる。
誰かの役に立てるのが嬉しいらしく、傘化けは空中に浮き上がって両手を広げ、くるくると雨を弾いてくれるため、人が手に持つ必要は無い。
「ソーニャが戻るまで、ここで雨宿りをしましょう」
屋台と屋台の間の狭い隙間にクラウディアを押し込むと、警備のためパーシヴァルは通りに目を向ける。
後方に建物の壁、両脇に屋台、そして前方にはパーシヴァルの大きな背中。
濃紺の紬の着物をラフに着流し、角帯を浪人結びにしているパーシヴァルは、なかなかの洒落者のようだ。
イアポニアの栄養バランスの取れた食事は鍛錬にも効果的らしく、また一回り筋肉の鎧が大きくなったような気がする。
《この男ぶりで独身とは……》
少々年嵩で右半身の問題もあるとはいえ、王都でも相当人気があったと思われるのだが。
雨は、天の底が抜けたような激しさだった。
さらに雨足が強まってきたため、クラウディアは建物の軒下へ移動した。
パーシヴァルの濃紺の紬が雨に濡れて色を深めるのを見つめながら、建物の壁に背を付けた、その刹那――
(……ん、温かい……?)
背後から、巨大な真綿に包み込まれたような錯覚。
空気の密度が劇的に変化し、鼓膜の奥で「ピシッ」と結晶が割れるような音が響く。
ふわり。何か暖かいものに柔らかく包まれた。
次の瞬間、視界が消えた。
「え……あ……っ」
声が空間に吸い込まれる。
落ちているような。
引っ張られているような。
沈み込んでいくような。
クラウディアは反射的に末端細胞を伸ばし、糸を作り、四方へ網を投げた。
そして――突然、どこかへ、弾き出された。




