第29話 地下図書館と世界の理
螺旋階段の急な勾配を降りきった先、厚い石扉に守られた一画がイアポニア領管理人事務所である。
そのさらに奥、重厚な扉を抜けた先には、王都のどの学術院でも見たことのない異国の文字が、無数の背表紙となって静まり返っていた。
地下の空気は、湿り気を帯びた地上のそれとは完全に遮断されている。
肌に触れる空気はひんやりと冷たく、そしてほどよく乾燥していた。
一年を通じて高温多湿なイアポニアにあって、この環境を維持するのは、並大抵の労苦ではない。
「こんにちは、クラウディア様」
静謐を破る柔らかな声に、クラウディアは会釈を返した。そこにいたのは、書庫の守護者である二人の司書、芽依と紫乃である。
緑がかった黒髪を艶やかに揺らす芽依は、希少な雨女の系譜だ。彼女は周囲の空気から余分な水分を磁石のように吸い上げ、自らの体内に溜め込むことで、室内の湿度を常に50%前後に制御している。
対して、青みがかった黒髪に凍てつくような白肌の紫乃は雪女。彼女の発する冷気は室温を常に18℃に保ち、芽依が空気から分離した水を瞬時に凍らせては、地下2階にある氷室へと静かに運んでいく。
紙という繊細な媒体を数世紀にわたって保存するには、直射日光を避けるのは当然として、高湿度と高温の徹底した排除が不可欠だ。
温度は16~20℃。湿度は60%を超えればカビの苗床となり、40%を下回れば紙の繊維が悲鳴を上げて脆くなる。
この地下図書館の蔵書が、あたかも昨日刷られたかのような瑞々しさを保っているのは、人知を超えたこの2人による献身的な空調のおかげだった。
室内の明かりは、熱を持たない青白い炎、陰火。
クラウディアの歩みに呼応するように、影のない光が静かに灯り、未知の知識が眠る書棚を照らし出した。
◇
クラウディアは一冊の古びた本を手に取り、その複雑な装丁に眉を寄せた。
「……これは、文字というよりは緻密な図紋ですわね」
細い線は幾重にも渦を巻き、点は夜空の星座のように計算された配置で打たれ、時には高度な数式を思わせる幾何学的な並びを見せる。暗号だとしても、どこから視線を滑らせればいいのかさえ判然としない。
「それは、かつてこの地に住んでいた人間が残した書物です」
背後から、イブリムの穏やかな、しかし重みのある声が響いた。
「翻訳したものがこちらにございます。もしご興味がおありでしたらどうぞ。ただ、専門性の高い書物については、書かれている内容があまりにも難解だっため、虫食いのような翻訳しかできていないのですが……」
差し出された翻訳本は、王国語で整然と書き直されていた。
今でこそ、ここイアポニアでも王国語が共通語となっているが、初代管理人は妖たちとの対話の中で、気の遠くなるような時間をかけて互いの言語を教え合ったという。
そうして何代にもわたり、血を吐くような翻訳作業が積み重ねられ、古代イアポニア文明の資料群が編纂されてきたのだ。
地学、歴史、文学、あるいは子供向けの寓話。
難易度と専門分野ごとに美しく分けられた書棚は、単なる記録の集積ではなく、この場所がひとつの“知の生命体”のように脈動していた。
◇
クラウディアは地学の棚から、一冊の専門書を手に取り、頁をめくった。そこに記されていたのは、王国が信じる“神が創りたもうた平らな大地”とは似ても似つかぬ、苛烈な真実だった。
【――地球の中心部には核があり、内核は固体、外核は液体である。マントルは厚さ約2900km、体積の82%を占める――】
プレートテクトニクス。
年に数センチという、人の目には感知できないほど僅かな移動が、数億年という果てしない歳月をかけて大陸の姿を粘土のように変えていく。
さらにはホットスポット――プレートの境界とは無関係に、マントル深部から突き上げる熱い上昇流が火山を産む。
クラウディアは、肺が凍りつくような感覚を覚えながら読み進めた。王都のいかなる高名な学術院にも存在しない、体系化され、実証的な知識の奔流。
「古代文明は、今の私たちより遥かに発達した技術を持っていたようです。当時、世界には5つの大陸が分かれて存在し、このイアポニアは『日本』という名の、海に囲まれた小さな島国だったのです」
イブリムの声が、冷たい書庫に静かに反響する。
彼が開いた頁には、今とは似ても似つかない、砕け散った破片のような世界地図があった。
その書物によれば、この星の大陸は約6億年周期で分離と合体を繰り返しているという。
大西洋の沈み込みによって、大陸が赤道付近で衝突・融合し、約2億5000万年後から約4億年後に形成されると推定されていたのが、パンゲア・ウルティマ大陸――多少の差異はあれど、それは現在の世界地図に近い姿だ。
つまり、この書物が作られた時代から、今この瞬間までに、気が遠くなるほどの月日が流れているということだった。
「科学は病を死の淵から救い、農耕を神の恵みから効率的な生産へと変え、輸送を光のような速度へと押し上げた。人間を地上の覇者へと祭り上げたのです」
だが――
大気に積み上がる目に見えぬ温室効果ガス。狂ったような森林の伐採。ゴミで窒息していく海洋。
やがて訪れた世界的な農産物の不作。漁獲量の激減。気候の激変は人々の心をも荒廃させた。
科学への絶望が、いつしか「科学否定」と「原始回帰」を唱える狂信的な宗教運動へと変質していく。
研究所への襲撃、発電施設の爆破、そして泥沼の内戦。
混乱に乗じた国家間の侵略は世界を二分し、最終的には星そのものを焼き尽くすほどの、全面戦争へと至った。
頁の隅には、古い宗教書からの引用が載っていた。
*『産めよ、増えよ、地に満ちよ。あらゆる地の獣、空の鳥、海の魚はあなたがたの手に委ねられる』*
それは万物の霊長たる人間へ地上の支配権の委託するものだったのか。あるいは、力を持つ者が負うべき、あまりに重い責任の告知だったのか。
だがその言葉を、自分たちに都合よく解釈し続けた末路が、この惑星規模の崩壊だった。
人類は絶滅の寸前までその数を減らし、その混乱の中で、これまで積み上げた知の巨塔が瓦解し、多くが失われてしまった。
書物には、4つの巨大なプレートが交差するイアポニアを襲った度重なる災害が記されている。
逃げ場のない島国で繰り返される火山、地震、大津波。科学という盾を失った人間たちには為す術もない。大陸と繋がるまでに、島は国土が3分の1にまで削られ、古代イアポニア人たちは、歴史の表舞台からその姿を消した。
「そして――」
イブリムは、高い天井を仰ぎ見るように書棚を見渡した。
「過酷な環境に適応し、あるいはその自然現象そのものから生まれた妖たちが残りました。彼らは、かつての隣人であった古代イアポニア人たちが遺したこれらの書物を、ずっと守り続けてきたのです」
古代イアポニア人は、森羅万象に神が宿ると信じていた。自然を従えるべき奴隷ではなく、畏敬すべき絶対者として。その精神性は、自然の化身である妖たちの本質と共鳴した。
だからこそ、数億年を越えて、この“知識の堆積”は朽ちることなく守られたのだ。
島が大陸の東端の半島となり、大陸の人間たちがイアポニアに入ってきた。しかし、彼らには、妖を認識することができなかった。
“ある”と信じて見ようとしない限り、彼らはただの風の音であり、動く影であり、疲労が見せる錯覚に過ぎない。
「リァマは比較的開かれた場所ですが、他の里は今も厳重に秘匿されています。――『逢魔が辻』の出現を除いては」
逢魔が辻。現世と常世の境が曖昧になり、時空が歪む瞬間。
月齢、潮汐、二十四節気、時刻。それら複雑な条件が幾重にも重なったとき、空間は音もなく口を開ける。
「しばらくは、お一人で外へ出歩かれませんように」
イブリムの静かな、しかし確かな重みを持った警告だった。
◇
「少し、休憩されませんか」
芽依の柔らかな声に、クラウディアはハッと顔を上げた。
読書に没頭して、いつの間にか時間を忘れていたようだ。
原語本と翻訳本を交互に見比べ、共通する単語を拾い、その意味を類推する。地道で気の遠くなるような作業の積み重ねで、彼女は少しずつ、古代イアポニア語の糸を解きほぐし始めていた。
差し出されたのは、アールグレイのアイスティーだった。
ベルガモットの爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。グラスの中では、紫乃が作った一欠片の氷が、カランと清涼な音を立てて溶けていった。
皿に並べられたのは、宝石のように美しい虹色のマカロン。
クラウディアは重い本を棚へ戻し、虹の波長に従うように、赤から順にひとつずつ口に運んだ。繊細な甘さが脳の疲れを癒していく。
だが、その甘美な休息の最中も、胸に沈んでいるのは何億年もの間、人知れず守られてきた知識の圧倒的な重圧だった。
この書庫の最奥には、まだ歴代の管理者たちですら読み解いていない知識が眠っている。
世界の理、そのものの根源が。
ご覧いただきありがとうございます!
完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




