第25話 屋敷の湯殿
水が貴重な王国では、入浴習慣が乏しい。
大多数の平民は濡らした布で体を拭うのが精々で、たらいに湯を張って体を洗えるだけでもかなり恵まれている方だ。
貴族であっても事情はそれほど変わらない。
寝転んでようやく体を沈められる程度のバスタブを使用し、湯は使用人が何度も運び、冷めれば差し湯をする。
つまり入浴とは、非常に手間のかかる贅沢なものなのだ。
ところが、湯殿と呼ばれるこの屋敷の浴室は、その常識から完全に外れていた。
目の前にあるのは、滔々と溢れるほどの湯を湛えた、巨大な檜の浴槽だった。
10人は優に入れるほどの広さ。そして岩壁から、ざあざあと小さな滝のように湯が絶えず注がれている。
「……えっ、これ、全部、お湯……ですの……?」
クラウディアは呆然とした。
「まずは掛かり湯で身を御清め下さい」
勝手が分からないことを案じたのか、湯殿には“ミヅノタマ”と名乗る老婆が付き添ってくれていた。
老婆の姿形自体は、ごく普通の人間の老女と変わらない。白髪をきちんと結い、小さな背中を少しだけ丸めている。
ただ一つ違うのはその大きさだった。
身長は1メートルにも満たない。子供よりもさらに小さな体で、ちょこちょこと歩き回っている。
クラウディアは手桶を手に取り、浴槽から湯をすくった。
立ち上る湯気には、微かに硫黄と、森の香草の匂いが混じっている。
クラウディアは何気ない仕草で、指先から極細の末端組織を伸ばし、湯の成分を分析した。
《地下深層のマグマ溜まりによる熱交換、および地殻に含まれる特定鉱物の触媒反応を確認。炭酸水素ナトリウムが主成分。弱塩基性。特に有害な成分は検出されない。むしろ皮膚には良さそうだ》
「ソーニャ、大丈夫よ。危険は無いわ」
後ろで立ち尽くしているソーニャに声をかける。
百戦錬磨のアサシンである彼女でも、この状況には理解が追いついていないらしい。
裸のまま、元々感情の薄い顔をさらに強張らせて固まっている。
視線は浴槽、滝、天井、老婆――と忙しく動き続けていた。
「……この湯は、何かの罠、ではありませんよね……」
「多分、違うと思うわ」
ミヅノタマの指導に従い、クラウディアは掛かり湯を始める。
まずは心臓から遠い足先から手桶の湯をゆっくりと足にかける。
温かい。
足先、膝、腰、そして肩へ。少しずつ、体を慣らすように湯をかけていく。
熱い液体が肌を叩くたび、旅の泥と一緒に重い皮が剥がれ落ちていくような感覚。
それだけでも体の芯までじんわりと温まり始めた。
「ンひゅぅ〜……」
浴槽に身を沈めた瞬間、クラウディアの口から漏れたのは、公爵令嬢としては完全にアウトな、魂が抜けるような声だった。
湯が柔らかく肌を包み込むようにまとわりつき、体の奥まで温めてくる。
ぬるめの湯を張ったバスタブに花や香油を落として入るのも悪くはないが、イアポニア流の入浴は比べ物にならない。
これはもはや、快楽だ。
最初は恐る恐る足を入れていたソーニャも、やがてゆっくりと湯に沈んだ。
そしてしばらくすると、浴槽の端に寄りかかり、目を閉じている。
まるで瞑想でもしているかのようだった。
「……思考が、停止します。これは……やっぱり罠なのでしょうか……」
「ええ、きっとそうね。……人を骨抜きにする、最高に甘美な罠だわ……」
2人の白い肌が、熱を帯びて桜色に染まっていく。
「……もう罠でもなんでもいい……そんな気持ちになります」
「ふふ。それは危ないわね」
十分に体が温まると、ミヅノタマが近づいてきた。
彼女が手に持っているのは、網目の粗いスポンジ。乾燥させたヘチマのタワシだった。
王国では硬いブラシで皮膚を削るのが一般的だが、ヘチマの繊維は適度な弾力を持ち、石鹸を泡立てて肌を滑る。
「それでは、お背中を」
優しく体を擦り始める。
ざらりとした感触だが、不思議と痛くはない。
ミヅノタマは楽しそうに語る。
「リァマの都の湯は炭酸泉で、美人の湯として有名でしてね。お嬢様方の玉のお肌は、更に輝きを放ちますよ」
美人になれるかどうかは分からない。
だが、湯に含まれる炭酸塩が血行を良くするらしい。
湯から出た後も、体の奥がぽっぽと温かく、熱が逃げていないのがはっきりと分かる。
更にヘチマの適度な刺激が血行を促進し、クラウディアの細胞が活性化していく。
聞きたいことは山ほどある。
妖の町のこと。
この湯のこと。
日吉のこと。
だが今は――
露天には、人ひとりがすっぽりと入る巨大な瓶が置かれている。中には、先程とは違う、なめらかな湯ざわり。鹿おどしに似た竹の筒から注がれているのは、弱アルカリ性の湯だ。
仕上げ湯に首まで浸かり、浮力に身を任せながら、その全てを後回しにした。
「……ああ、もう、何も考えたくありませんわ……」
すべてが、湯気の向こう側へ遠ざかっていく。
目を閉じ、肩まで湯に沈む。
そして、ただこの快楽に身を委ねることにした。
男湯の方ではパーシヴァルの焦った声が聞こえてくる。
「熱い!こんな煮え湯に入るのか?!」
そんな喧騒さえも、今は心地よい子守唄のように聞こえた。
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完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
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