第23話 イアポニアへ
半島と大陸との境目には、まるで瘴気が大陸側へ漏れ出すのを防ぐ巨大な結界のように、深く巨大な峡谷が横たわっていた。
遠目には大地がぱっくりと裂け、奈落が口を開けているかのように見えるその峡谷は、かつて急流の川が数万年という途方もない歳月をかけて岩肌を削り取ってできた地形だという。
今はその川も干上がり、細く険しくえぐられた川底が、半島へと渡る唯一の“回廊”となっていた。
その回廊の入り口で、ラドクリフはついにクラウディアに別れを告げた。
この旅に同行するため、王都には影武者を立ててきたが、公爵という地位にあればそれも長くはもたない。
「王家から派遣されていたイアポニアの管理人やその部下は、お前がこの地を治めるにあたり、王都へ呼び戻された。」
ラドクリフは腕を組みながら続けた。
「だが、元々は左遷でこの捨て地に追いやられた者ばかりだ。王都に戻ったところで彼らに居場所はないと言ってな。……全員、退職させてウチの公爵家で雇い直しておいた。彼らはお前の味方だ。安心して頼りなさい。」
確かに、長い間、捨て地に追いやられていた彼らの中に、王家のスパイはいないだろう。
王家の“耳”を排除しつつ、クラウディアのために信頼できる実務部隊を丸ごと用意したのだ。
《――なかなか食えない親父様だ。》
クラウディアは小さく笑った。
「必ずまた会いに来る。手紙も書く。……どうか、元気でいておくれ。」
固く抱擁を交わした二人に、10年以上に及ぶ確執の影はもう無かった。
愛娘を抱き寄せながら、ラドクリフはふと思い出したように言った。
「いいか、クラウディア。イアポニアは世間で言われているような場所ではない。」
「はい。お父様。だからこそ、私はこの地を賜ることを望んだのです。」
その答えを聞いたラドクリフの顔に、はっきりと喜色が浮かんだ。
娘は、いつの間にこんなにも聡明に育ったのだろうか。
「では、“良き隣人”たちによろしく。」
「え?」
クラウディアは首を傾げた。
ラドクリフは「ああ、流石にそれは知らなかったか」と、意味ありげに微笑む。
「……楽しみにしておくといい。きっと、気に入る。」
問い返すよりも早く、ラドクリフは身を翻して馬を駆った。風に乗って聞こえてきたのは、彼が口ずさむ軽やかな鼻歌だった。
◇
父と別れた一行は、薄暗い峡谷へと足を踏み入れた。
天然の岩道は決して平坦ではなく、鋭い岩が突き出し、緩やかなアップダウンが続く。左右には垂直に切り立った断崖が壁のように聳え立ち、正午だというのに、光はわずかしか届かない。
――静かすぎる。
風の音さえ、ここでは遠い世界の出来事のようだ。だが、峡谷の奥、一筋の針穴のような光が、半島の出口を確かに指し示していた。
その光の中へ飛び出した瞬間、景色は劇的な裏切りを見せた。
峡谷の手前までは、砂漠に近い、命の気配の薄い荒野が広がっていたはずだ。
しかし、今、クラウディアの頬に触れる空気には、はっきりとした湿り気と、濃厚な草木の匂いがあった。
そして目の前に広がっていたのは――緑だった。
濃く、深く、豊かな緑。
「これは……驚いたな……」
思わずパーシヴァルが呟く。
王領の管理人がいる以上、人が住めないほど過酷な土地ではないと想像はしていた。
だが、ここまで豊かな土地だとも思っていなかった。
それは誰もが抱く感想だろう。
実際に訪れなければ、信じられない。
クラウディアは、地理学で学んだ知識と、周辺の領から上がる報告書、そして王城図書館の資料から、一つの結論に辿り着いていた。
イアポニアの“魔界からの瘴気”とされるものは、恐らく火山ガスだ。
だが近年、近隣の領から噴煙の報告はない。つまり現在の火山活動は活発ではない。地形から考えても、その影響範囲は限定的。
となれば――イアポニアは、手つかずの資源が眠る土地である可能性が高い。
大陸の内部は乾燥し、昼夜の温度差が激しく、土地は痩せている。そのため、人口は北側へ集中している。だが海側は湿度があり、温度差も少ない。
半島であれば、領土全体が温暖な気候であろう。
そこまでの予測はしていたが、まさか、これほどとは。
強い海風が吹いているため蒸し暑さはあまり感じないが、雨はよく降るのだろう。
多種多様な植物が生い茂り、森は生命の匂いに満ちていた。
峡谷を抜けた場所から、管理人がいる町へどう向かえばいいのか。
クラウディアが思案したその時、目の前に一羽の茶色い小鳥が降り立った。
「チチチチッ」
人を恐れる様子もなく、丸い瞳でこちらを観察している。彼女が手を伸ばすと、小鳥は誘うように少し先へ飛び、振り返った。
クラウディアが近づく。
するとまた少し先へ飛ぶ。
まるで追いかけっこを楽しんでいるようだった。
そのやり取りを何度か繰り返した頃、森の入り口に細い小道を見つけた。
木々の隙間を縫うように伸びるその道は、近くまで来なければ存在すら分からなかっただろう。
「お前、もしかして……道案内をしてくれているの?」
小鳥はまたチチッと鳴いた。
馬一頭がぎりぎり通れるほどの小道を、クラウディアが小鳥を追って進む。
その後ろを、パーシヴァルとソーニャが警戒しながら馬を引いて歩いた。
小道は迷路のように枝分かれしていた。もしこの小鳥がいなければ、とうに迷っていただろう。
奇妙な行列が森を進むこと半刻。
西日が森をオレンジ色に焼き、影が長く伸び始めた頃――。
突然、目の前の空間が抜けるように開け、一行は足を止めた。
そこには、整然とした“ 都”があった。
石畳で舗装された美しい道、放射状に伸びる機能的な町並み。
だが、それは王都のような重厚な石造りの建築ではない。木と紙、そして竹を多用した、これまで見たこともない様式の建物が並んでいる。
軒先には、柔らかな光を放つ提灯が連なり、町全体を幻想的な朱色に染め上げていた。
「……夢でも見ているのか?」
パーシヴァルが呆然と呟いた。
彼が驚いていたのは、異国の街並みに対してではない。
――この街を行き交う多くは、人ではなかったからだ。
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完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




