第22話 父と娘
日暮れが近い。
一行は積もる話は後にし、急ぎ野営の準備をした。
焚き火の火がぱちぱちと音を立て、橙色の光が揺れる。夕闇がゆっくりと森を包み込み、遠くでサヨナキドリの声が聞こえた。
今日の夕食は干し肉のスープ、昨日の残りの鴨肉のソテー、黒パンに炙ったチーズをのせたもの、デザートは苔桃のコンポートだ。
大貴族に供するには粗末な野営食。しかし空腹には何よりのご馳走である。
着替えたところで、体に浴びた血の匂いは、完全には消えない。
しかし腹がくちくなると、気持ちにも自然と余裕が生まれる。
数刻前の襲撃を忘れたように、焚き火の周りにはゆったりとした時間が流れていた。
ラム酒を紅茶で割ったものをちびりちびりとやりながら、ラドクリフ・リーベル公爵は、ここに至るまでの話を少しずつ語り出した。
焚き火の炎が、ラドクリフの横顔を赤く染める。その影は深く、彼が独りで背負ってきた孤独の長さを物語っていた。
ラム酒の混じった紅茶の香りが、冷え切った夜気に溶けていく。
「クラウディア、今まで本当にすまなかった。私がお前を愛していることを、王家に気取られるわけにはいかなかったのだ。」
静かな声だった。
クラウディアの母、ベアトリス・リーベルは先王の娘であり、現在の王エルドリックとは年が離れた腹違いの妹だった。
先王が儲けた子はこの2人だけ。
正妃の子はベアトリスだったが、王位継承権は男子にしか認められないため、側室の子であったエルドリックが王位を継いだ。
女性であるベアトリス自身には王位継承権は無い。
だが、彼女が産む男子には、次の王位継承権が発生する。
当代きっての美姫であったベアトリス。当然引く手数多だったが、他国へ嫁がせることはできなかった。
もし他国の王家に嫁ぎ、そこで男子を産めば、その子はゼフィロス王国の王位継承権を持つことになる。
それは将来の火種になりかねない。
そこで国内の家臣へ降嫁させることになった。
白羽の矢が立ったのが、女嫌いを公言していた氷の公爵ラドクリフだった。
「私は元々、結婚するつもりはなかった。家督は弟の子に譲るつもりでいたのだが……王命には逆らえなかった。」
ラドクリフは苦く笑った。
「初夜の日も、ベアトリスに『君を愛するつもりは無い』などと言って、寝室に行くことさえしなかった。」
しかし、王女にも関わらず活発で真っ直ぐな性格のベアトリスに、いつしか心を絆されていった。
そして結婚して2年後、クラウディアが生まれた。
「お前が産まれたときは、本当に嬉しかったよ。どんなことをしても守ろうと、心に誓った。」
ラドクリフは炎を見つめたまま呟いた。
「だが――そんな時、ベアトリスが倒れたんだ。」
声が低くなる。
「元気過ぎるくらいだったベアトリスが、少しずつ、だが確実に衰弱していく姿を見るのは……体が引き裂かれるよりも辛かった。」
国中の名医を呼んだ。
祈祷師も、薬師も、王城の侍医も。
だが誰一人として原因を突き止めることはできなかった。
そしてクラウディアが3歳の誕生日を迎える頃、ベアトリスは帰らぬ人となった。
ラドクリフの秀麗な顔が、怒りで歪む。
「死後に知ったんだ。ベアトリスの死は、病ではなかった。」
握り締めた拳が震える。
女嫌いの自分と結婚させたのは、ベアトリスに子供を作らせないためだった。
だが予想外に夫婦仲が良く、クラウディアが生まれた。
犯人は危機感を覚えた。
男子が生まれる前に――始末する必要があると。
「王家に伝わる毒だ。……ベアトリスは、実の兄エルドリック王に殺された」
その言葉が落ちた瞬間、周囲の空気が凍りついた。
パーシヴァルは剣の柄に置いた手に力を込め、ソーニャは音もなく息を呑む。
「怒り狂った。王を弑し奉ろうかとも思った。だが、思いとどまった。クラウディア、お前にまで類が及ぶ可能性があったからだ。」
ベアトリスと同様、クラウディアが産む男子にも王位継承権が生まれる。
やがて王家はクラウディアの命を狙うだろう。
そこで考えたのが、ユリシーズとの婚姻だった。
ユリシーズの子として生まれる男児ならば、王家にとって何も問題は無いからだ。
「未来の王太子妃であるお前には、王家から護衛が付けられる。それで命は守られると……私は安堵した。」
だが、とラドクリフは続けた。
「しかし段々と不安になった。お前も知っての通り、貴族院と王家は対立関係にある。貴族の筆頭である私を意のままに操るために、王がお前を人質として利用するかもしれない、と。だから……私は、娘に興味を持たない、薄情な父である必要があった。」
父親にも愛されない娘、政治の駒として過ごした日々。
そのすべては、王という名の“毒蛇”から彼女の命を守るための、血を吐くような大芝居だったのだ。
「私は、お前を見ないようにした。お前が泣いていても声をかけず、書斎の窓からその背中を、ただ見守ることしかできなかった。」
ラドクリフの声は、掠れた悲鳴のようだった。
「ベアトリスを失って……さらに、お前まで失ったらと思うと……怖くて、怖くてたまらなかった。」
ベアトリスが毎日少しずつ毒を盛られたという状況を考えると、家の中でさえ油断はできない。
いくら愛しくても抱きしめることもできず、声をかけることさえ躊躇った。
「愛している、クラウディア。……ずっと、ずっと、こうしてやりたかった」
差し伸べられた腕。
体は、元のクラウディアの心に感応するかのように、一瞬、戸惑いを見せた。
だが――ジャスパーが静かに、そして力強く指示を出す。
するとクラウディアの体は勢いよく、父の胸に飛び込んでいった。
硬い胸の感触。
微かに香る酒と森の匂い。
大きな手が、壊れ物を扱うように彼女の頭を撫でる。
十数年分の空白を埋めるような、熱く、痛いほどの抱擁。
クラウディアの瞳から、自覚のないまま熱い雫が零れ落ちた。
「お前を護ることさえ覚束ない、不甲斐ない父を……許しておくれ。」
――その時。
クラウディアの意識の奥底、記憶の迷宮の奥深く。
ジャスパーは、埃を被った地下の一室から、一冊の古い本を引っ張り出した。
それは“愛されなかった記憶”として分類されていた、色彩のない本だ。
だが――
父の真実の告白という光を当てた瞬間、インクの色が変わり、隠されていた背景が浮かび上がる。
すると周囲の本も、自動でぱらぱらと頁をめくり始める。
庭で遊ぶクラウディアを、窓から目を細めて見ている父。
式典の日、すぐにクラウディアに駆け寄ろうとしたが、踏み止まった父。その時の表情は、娘に対する失望ではなく、こんな時ですら助けられない自分への怒りであったことを。
冷たかった視線の奥に、隠しきれない慈しみを見つけ出す。
その沈黙の意味を理解した瞬間、記憶が書き換えられていく。
ジャスパーは、その本を磨き上げ、記憶の宮殿の最も陽の当たる特等席へと並べ替えた。
ただ――父のドレス姿の記憶だけは、地下の最奥の部屋に封印してやることにした。
ご覧いただきありがとうございます!
完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




