第19話 旅立ちの日
卒業式から10日後――旅立ちの朝。
王都の城壁の東門は、早くから荷馬車や旅人で賑わっている。商人、巡礼者、兵士、農民――それぞれの事情を抱えた人々が、街道へと流れ出していく。その中に、クラウディアの一行もいた。
家具やドレス、装飾品など、到着後すぐに必要になる荷物の大半は、すでに別便で送ってある。それでもイアポニアまでの旅は長く、馬車で数ヶ月はかかる道のりだ。
「クラウディア様、どうか、どうか、くれぐれも……ッ……体に……ック……気を……ッ……て……ック……お元気で……ック……」
クラウディア付きの侍女は涙で言葉が途切れ、最後の方はもう声にならなかった。
「泣かないで。今生の別れという訳ではないのだから」
侍女は首を横に振る。涙に濡れる侍女の手を握り、クラウディアは微笑んだ。
かつての彼女なら、別れの言葉さえ義務的に済ませていただろう。だが、今の彼女の指先には、確かな体温が宿っている。
「必ずまた帰って来るわ」
侍女は泣きながら何度も頷いた。
クラウディアが馬車に乗り込むと、御者が手綱を引いた。ゆっくりと車輪が回り出す。
――しかし、とうとう、父親は姿を見せないままだった。
◇
馬車は街道へと進んでいく。イアポニアまでの旅には、特に期限はないし、急ぐ理由もない。ゆえにクラウディアは最短ルートを取らず、寄り道をしながら様々な領地を経由して向かうことにした。
街と街の距離は遠く、領地ごとに景色が変わる。ある場所では乾いた風が吹き、ある場所では霧が濃く、ある場所では果樹園が丘を埋めていた。
市場に並ぶ食べ物も違う。
香辛料の効いた肉料理。酸味の強いチーズ。素朴な黒パン。
クラウディアたちはそれらを楽しみながら、ゆっくりと東へ進んでいった。
だが、王都から離れるにつれて、街道の様子も変わっていく。石畳は途切れ、道は土になり、やがて轍だらけになる。
宿は粗末になり、建物は古びていく。
旅路は、王国の隠された“傷跡”を露わにしていった。
賄賂と横領が毛細血管のように蔓延り、領民の活力を吸い尽くしている。
みすぼらしい服を着て震える女性。道端でうずくまる老人。市場の裏で残飯を漁る子供。
それらは、学園の教科書には載っていない王国の“不都合な真実”だった。
「……一体、ここの領主は何をしているのかしら?」
宿屋の薄暗い部屋で、クラウディアは独りごちた。
最も上等な客室でも、蝋燭が極限までケチられているのだ。
背後で彼女の髪を編み上げるソーニャの指先が、一瞬だけ止まる。
「リーベル公爵様は、特別なのですよ」
クラウディアは鏡越しに侍女を見た。ソーニャは淡々と続ける。
「私は孤児院で育ちました。……本当に、酷い環境でした。生きる為には、どんなことでもしました」
声は静かだった。
「人には言えないようなことも」
ソーニャの育った孤児院はリーベル公爵領の隣にある、小さな男爵領にあったという。痩せた土壌の貧しい土地で、作物はろくに育たない。そのうえ男爵は統治に興味がなく、領政を放棄していた。
「でも、公爵家の孤児院に保護された後は、全てが変わりました」
ソーニャの声が少し柔らかくなる。
清潔なベッド。洗濯された服。温かい食事。そして教育。
「字も、計算も、礼儀も教えてもらえました」
「そうでない孤児院も多いの?」
「はい。一つのベッドに数人で寝たり、ぼろぼろの服を着たり、食事もろくに貰えないのが普通です。孤児院を出ると、男の子は安い賃金で休みなく働かされる場所に斡旋されます。女の子は……」
一瞬言葉を止める。
「売春宿へ売られることもあるそうです」
「……領主は、何故、領民を助けようとしないの?」
ソーニャは髪を結び終え、リボンを整える。
「領主である貴族の多くは、王都に邸宅を持っています。領地に構えている館、領邸に帰るのは長期休暇のときだけ。それ以外は政務があるという理由で、王都に住み続けるのです」
領地の管理は管理人を雇って丸投げ。たまに領邸に戻って遊んで帰るだけでは、領民の生活など分からないのだろう。
しかし、リーベル公爵は違う。
政務で必要な時以外は、可能な限り領地で過ごしていた。管理人はいるが、任せきりにはしない。
領都や街道の整備。山崩れや洪水の防止。実際に現地を見て、判断し、政策を決める。
「そう。お父様は、良い領主なのね」
「はい。とても」
普段ほとんど表情を変えない、愛嬌のない侍女が鏡の中で、ふんわりと微笑んだ。
それを見て、クラウディアの胸にも温かいものが広がる。
クラウディアの記憶の中のリーベル公爵は、娘をほとんど見ようとしない冷たい父親だった。
――領民のために、国のために、その時間を、すべて費やしていたのだとしたら。
《……だからって、娘の見送りにすら来ないってのは、さすがにどうかと思うがな》
ジャスパーは心の中で、小さく毒づいた。
◇
クラウディア一行が王都を出立する日。
城壁の上、王都の東門を見下ろす石の回廊に、一人の男が立っていた。宰相ラグナである。
「……」
春の風が外套の裾を揺らす。その視線の先では、一台の馬車がゆっくりと街道へ出ていくところだった。
クラウディアと侍女が乗る馬車が1台、そして護衛騎士の騎乗馬が2頭。公爵令嬢の旅立ちとしては、あまりにも質素だ。
更には、学友たちにも出立の日を知らせることなく、見送りは家人のみときている。
目立たないように徹底されたこの旅立ちは、かえって不気味さを感じさせた。
「この不安が杞憂に終わってくれればいいのだがな……」
ラグナはひとり呟き、懐から取り出した胃薬を飲んだ。
城門を出た馬車は小さくなっていき、やがて街道の向こうへ消えた。
――その旅路に、どれほどの思惑が重なっているのかも知らぬまま。
春の風が、城壁の上を通り抜けていった。
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完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




