第14話 宰相の苦悩
「え……、あの、イアポニアを、ですか?」
宰相ラグナが、情けないほど素っ頓狂な声を上げた。
耳を疑うとはまさにこのことだった。
王都から馬車で数週間、険しい山脈の向こう側に広がる東の果ての捨て地。王国で最も見捨てられた半島。
そんな場所を望むなど、正気の沙汰とは思えない。
「王領の下賜とはいえ、イアポニアであれば、結局のところ私に非があるための、ていのいい流刑であると、人々には理解されるでしょう」
クラウディアは静かに言葉を紡いだ。
その声音は凪いだ海のように穏やかだった。
だが、その過剰なまでの控えめさが、ラグナの胸に余計に痛々しく響く。
「それはそうですが……しかし、それでは到底、慰謝料にはならない。貴女が受けた辱めに対して、あまりに利がなさすぎる」
慰謝料を形式的に渡し、王家の不始末に義理を果たす。
国庫の負担はゼロ。そして不祥事の当事者を遠ざけることで王家の面子も守られる。
――王家にとっては、まさに天から降ってきたような都合の良い申し出だ。
だが、クラウディアにとっては破滅の追認でしかない。
ラグナが困惑の色を隠せずにいると、クラウディアは悲しげに目を伏せた。
「仮に今日、私の汚名が雪げたとしても……。傷物、訳ありの女として、今後まともな婚姻など望むべくもございません」
王太子との婚約破棄、そして衆目の中での断罪。
たとえ法的な無罪を勝ち取ったとしても、社交界という名の魔窟がそれをどう解釈するかは別問題だ。
「そんな私には、もはや社交界に身の置き所はございません。今後、公爵家の役に立つことも叶わないのです」
せめて涙は見せまいと耐えるように、深く俯く彼女。
その震える肩の細さがあまりにも不憫で、その場にいる者は彼女から目を離すことができなかった。
「ですから――私の最後の望みは、私のことを誰も知らない遠い場所で、静かに……ただ、静かに、余生を暮らしたい。それだけにございます」
クラウディアの白い指先が、膝の上でかすかに、儚く震えた――ように見えた。
もちろん、それはジャスパーがミリ単位で計算し尽くした“薄幸の令嬢”のデモンストレーションである。
王家への忠義ゆえに、自ら泥を被って去る健気な乙女。
怜悧狡猾と評される宰相ラグナですら、シワの刻まれた目尻にツンと熱いものを感じていた。
「今まで……本当にお世話になりました」
《あのアバズレと末長く仲良くなぁ! バァーカ!》
内心の凄まじい罵倒を、最高にエレガントなカーテシーの曲線へと昇華させ、クラウディアは深く一礼した。
「クラウディア様……っ!」
「なんという高潔なお方だ……!」
その背中を見送る騎士たちの視線は、もはや敬意を超えて崇拝に近いものに達していた。
彼らにとって、この応接室を去っていくのは“罪を免れた流刑囚”ではない。
この国の、死に絶えかけた良心そのものだった。
部屋の隅で誰かが耐えきれず鼻をすすり、それにつられるように次々と嗚咽が漏れ出す。
騎士たちの泣き声を背中に、クラウディアは、一度も振り返らずに部屋を後にした。
◇
パタン、と重厚な扉が静かに閉まり、彼女の姿が消えた。
その瞬間、部屋の温度が一気に下がったかのような錯覚を、ラグナは覚えた。
残されたのは国王エルドリック、王太子ユリシーズ、そして宰相ラグナ。
誰も口を開かない。重く、鈍く、じわじわと神経を削るような沈黙が部屋を支配した。
「……クソッ!!」
最初にそれを破ったのはユリシーズだった。
「なんだあの女は! 調子に乗りやがって! 俺を……俺をこれほどまでにコケにして――!」
沈黙を破った怒鳴り声は、ただでさえ地に落ちたこの男の品格をさらに貶める。
椅子を蹴り飛ばし、顔を真っ赤にして喚き散らすその姿は、一国の王太子というよりは、お気に入りの玩具を取り上げられた幼児のそれだった。
「ユリシーズ。……黙れ」
エルドリックの低く、地を這うような声。
抑えた声に宿る父の怒りに、ユリシーズは瞬時に口を閉ざした。
そして訪れた静寂。その中でエルドリックは深い、深いため息を吐き出した。
「……お前は、自分が一体、何をしたか理解しているのか」
ユリシーズは悔しげに顔を歪めるが、父王はもはや彼を見てすらいなかった。
その瞳には、怒りを超えた絶望が混じっていた。
「お前は、とんでもない『宝』を、みすみすドブに捨てたのだ」
先王の血を引く母、そして王国随一の権勢を誇る公爵を父に持つ。
その血筋以上に、あの冷徹なまでの判断力と頭脳、人の心を一瞬で掌握するカリスマ。
クラウディアが王妃になれば、斜陽の一途をたどるこの国に、再び栄華をもたらしたに違いない。
そんな女を、婚姻一つで生涯、国のために働かせることが出来たというのに……。
この愚かな息子は、どこの馬の骨とも知れぬ女の安っぽい誘惑に鼻面を引き回された挙句、得難い宝を自ら放り出したのだ。
一方、ラグナは震える指先で手元の書類をまとめていた。
いつもの穏やかな仮面は剥がれ落ち、眉間には深く、険しい皺が刻まれている。
視線は書類に落ちているが、文字など追ってはいない。
その脳細胞は、フル回転で「今、ここで何が起きたのか」を再構築していた。
「……ラグナ。何か、不備でもあったのか?」
エルドリックが力なく尋ねる。
「……いえ。完璧です。不備どころか、あまりに完璧すぎます。……まるで、この絵図を描いたのが、最初から彼女自身であったかのように」
「馬鹿なことを言うな! 婚約破棄を突きつけたのは私だぞ?!」
「ええ」
ラグナは静かに、しかし確信を持って頷いた。
「式典の夜。あの婚約破棄の宣言に、クラウディア様は困惑の色を見せておりました。おそらく、その時点までは殿下の筋書きだったのでしょう。そして、彼女はその直後に塔へ幽閉された。冤罪を晴らすための調査など、一切出来なかったはずです。しかし……」
ラグナは自らの指を一本ずつ折りながら、彼女の起こした奇跡を数える。
「公的な書類という、客観的かつ信頼性の高い証拠によるアリバイの立証。王家に忠誠を誓う騎士たちから引き出した、真実の証言。そして……誰もが納得せざるを得ない、この落としどころです」
(そうだ。この私すら、憐憫という感情を利用され、彼女の手のひらで踊らされていたのだ)
王国法では、家督も爵位も女性には継承権が無い。また女性は戦争で武功を立てられないため、自力で領地を得ることはできない。つまり、女性が領主となることは事実上、不可能だった。
だが彼女は、それを成し遂げた。
王家に巨大な貸しを作り、それと引き換えに領地を勝ち取ったのだ。
(しかし謎は残る。――なぜそれが、辺境のイアポニアなのか。本当に、ただの『捨て地』として選んだのか……?)
王城の窓から、遠ざかる1台の馬車が見えた。
その中には、愛を失い、王都を追われる哀れな少女が乗っているはずだ。
――だが。
ラグナの脳裏に浮かぶのは、チェス盤ではなく本物の戦場で、人間を駒のように動かして冷笑する、美しき異形の姿だった。
「……ぐ、ぅ……」
ラグナはせり上がる吐き気を覚え、胸ポケットから胃薬の瓶を取り出した。
そしてそれをエールでも飲むかのように、無言で一気に呷りきった。
ご覧いただきありがとうございます!
完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




