第111話 近衛隊長とクラウディア
パーシヴァルが近衛隊長に就任して以来、彼は影のように常にクラウディアの傍らにいた。
新生王国の黎明期。
王城に積み上がる政務は、文字通り山を成している。
食糧問題の解決、王都の復興工事、国防の再編。
前王の遺物である腐敗の温床を根こそぎ潰し、古びた法を脱ぎ捨てて、新たな国家の骨格を描き直す。
それら、いずれもが「一刻を争う」と付記された急務であり、途切れることなく彼女の机へ押し寄せていた。
朝から晩まで、視界を埋め尽くすのは白茶けた書類の束。
各部署からの報告。紛糾する会議。止まることのない決裁印を待つ書類。
気がつけば、クラウディアが陽光を浴びる時間は削られ、執務室の主として籠もる時間ばかりが増えていた。
――それでも、止めるわけにはいかない。
それが自分の責務だと、彼女は己を律していた。
ある日の午後、パーシヴァルは、机の上に地層のように積み上がった書類の山を眺め、静かにため息をついた。
「クラウディア様、最近は政務ばかりですね」
クラウディアは顔も上げず、猛烈な勢いで羽ペンを走らせている。
「国家運営というのは、想像以上に『紙』でできているものなのよ」
さらさらと、小気味よい音が室内に響く。重いインクの匂いと、乾ききらない紙の感触。
そのすべてが、若い彼女の時間を削り取っていく。
パーシヴァルは行儀悪く机の端に腰掛け、腕を組んだ。
「そろそろ体が鈍ってきているのでは?」
ピタリ、と羽ペンが止まった。
わずかな沈黙。
「少し、抜け出しませんか?」
顔を上げたクラウディアの瞳に、ほんの一瞬だけ、檻から解放された子供のような光が宿るのを、パーシヴァルは見逃さなかった。
◇
数分後、クラウディアはパーシヴァルに手を引かれて半ば強引に――しかし、どこか嬉しげな足取りで中庭へと連れ出されていた。
王城内にある広大な訓練場の片隅。
そこには、彼女がお気に入りにしている弓の射場がある。
剣の鍛錬も欠かしてはいない。
だが、一射ごとに精神を研ぎ澄ませ、指先に伝わる強烈な張力を制御する弓の感覚が、今の彼女には心地よかった。
クラウディアは愛弓を手に取り、静かに射位に立つ。
深く呼吸を整え、土を掴むように足を開く。
体幹を一本の楔のように固定し、雑念を払う。
――この瞬間だけ、世界がシンプルになる。
弦を指にかけ、きりり、と引き絞る。
限界まで張り詰めた弦が、彼女の指先で小さく、しかし確かな意思を持つかのように震えた。
シュン。
空気を切り裂く鋭い音。放たれた矢は一点の淀みもなく一直線に飛び、遠くの的の中心へと吸い込まれるように突き刺さった。
静止した的ならば、もはや外すことなど万に一つもない。
ふぅ、と熱い吐息を漏らし、クラウディアは満足げに弓を下ろした。
「ねえ、パーシヴァル卿。私、最近、なんだか胸が大きくなった気がするの」
「それは大胸筋です」
パーシヴァルは食い気味に即答した。
コンマ一秒の躊躇も、一瞬の間もない。
クラウディアの、弓のように美しく弧を描く眉が、ぴくりと跳ねる。
「弓を引く動作は、胸部および背部の筋肉を酷使します」
至極真面目に、教官のような顔で彼は続ける。
「大胸筋」
さらに指を折りながら、解剖学的な解説を畳み掛ける。
「それと上腕三頭筋、広背筋、脊柱起立筋。下肢の安定のために殿筋群も動員している。つまり、全体的に筋量が増え、厚みが増している。それでボリュームが出ていると感じるのでしょう」
クラウディアは弓を杖代わりにつき、空いた手で自らの胸元を押さえてパーシヴァルを睨んだ。
「……これは、胸よ」
「いいえ、筋肉です」
「胸よ」
「間違いなく筋肉です。それも良質な」
沈黙の中、視線と視線が、火花のようにぶつかる。
やがて、ほんの僅かに肩をすくめて、パーシヴァルが折れた。
「……まあ、陛下がそうおっしゃるなら」
クラウディアは「勝った」と言わんばかりに満足げに頷く。
昔からおかしなところで頑固になる主君を、パーシヴァルは内心で苦笑しながら見守った。
そして、視線をほんのわずかに逸らしながら、ぽつりと呟く。
「まあ、俺個人としては、有っても無くても、どちらでも構いませんよ」
クラウディアは一瞬、きょとんと目を丸くした。
――そして、数秒後。
その言葉が内包する、あまりに直球な肯定の意味に気づき、彼女の顔面は瞬時に沸騰した。
「ちょっと……! それ、セクハラよ!!」
パーシヴァルは悪戯な微笑みを浮かべる。
「そちらこそ。これでも健康な男ですので、俺の前であまり胸の話をされるのは、控えていただきたいものです」
クラウディアは弓を握りしめたまま、金魚のように口をぱくぱくさせて言葉に詰まる。
そんな彼女を見て、「勝った」とばかりにパーシヴァルは愉快そうに破顔した。
◇
射場の両脇には、風除けのために常緑樹が狭い間隔で植えられている。
その小さな林の中で、少しだけ開けた場所に、パーシヴァルはあらかじめブランケットを敷いていた。
「ちょっと休憩しましょうか」
木陰の柔らかな土の上に敷かれた厚めのブランケットは、ふかふかと座り心地が良い。
そこにはいつの間に持ち込んでいたのか、軽食のバスケットまで用意されていた。
サーモンとクリームチーズのバゲット。
パストラミビーフを挟んだ全粒粉のパンのサンドウィッチ。
ウズラのスコッチエッグのピンチョスに、チョコチップとナッツの入ったマフィン。
さらには宝石のように磨かれた小ぶりの青りんご。
ワインクーラーには、陽光を弾く辛口のスパークリングワイン。
このところの激務で食欲が落ちているクラウディア(それでも普通の令嬢の2倍は食べるのだが)のために、パーシヴァルが調理場にお願いしたメニューは、すべて彼女の好物ばかりだった。
「ここなら人目につきませんから、手づかみでどうぞ」
樹木という障害物があるだけで、この一角は王城の誰の目にも留まらない。
秋の澄んだ空気、木漏れ日が差し込む静寂。
体を適度に動かした後の、誰の目も気にすることなく取る食事は、クラウディアにとって、久しぶりに「美味しい」と心から思える瞬間だった。
「今はこのくらいの息抜きしかできませんが、落ち着いたら視察の名目でイアポニアに行きましょう」
「素敵ね。こんな楽しみがあれば、頑張れそうよ」
そう言ってバゲットを頬張る頬は、先ほどの興奮か、あるいは午後の光のせいか、ほんのりと赤らんでいる。
「ねぇ、ここは私たちだけの、秘密基地みたいね」
――あの頃のように、あどけなくクラウディアは笑った。
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完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




