第110話 ルネの災難
ソーニャを海宮まで送り届けてきたルネは、別れ際、乙彦の手にそっと一冊の本を握らせた。
装丁こそ地味だが、中身は初心者に向けた、程よくソフトな春本である。
「ほら、今のままじゃ色々とまずいから……ちゃんと知識入れときなさいよ、この童貞」
ルネの親切心(とお節介)に対し、乙彦は手元の本をパラパラと無造作にめくると、事も無げに言い放った。
「子供の作り方くらい、うち、知ってるけど?」
「……は?」
ルネは雷に打たれたように硬直した。
「あんた、どの口が……! あんなに大真面目な顔して『キスで妊娠する』とか何とか抜かしてソーニャを怯えさせてたじゃない!」
ルネの地獄のシゴキにも、不平ひとつ言わず、努力を続けた。
それほど乙彦に惹かれているのに、ソーニャは自覚していなかったのだ。
「あれは、そう言ったら責任感じて、うちの側にいてくれるかなぁって思っただけや」
乙彦は、一体何が悪いのか心底分からない、といった顔をしている。
「は……はぁあああ!? あんた、確信犯で騙したってこと!?」
「騙したやなんて人聞き悪いなぁ。これから愛を深めて、本当に子供ができたら、嘘やなくなるやん?」
(う……こいつ……ヤバい女と同じ思想してるわ……!)
歪んだ独占欲を“純愛”というオブラートで包み隠そうともしない乙彦に、ルネはこめかみを押さえた。
「心配せんでも、まだ手ぇは出さへんよ。ソーニャは、義務感でここに居てくれてるだけやと思うから」
ルネの頭痛をよそに、乙彦は陶酔したような瞳で遠い海を見つめる。
「ゆっくり、じっくり……固い蕾が綻ぶように、時間をかけて、デロデロに溶けるまで、あまぁく愛してあげるんや。うちがいないと生きていけない体にして、一生離れられなくすんねん」
「え、キッモ……」
思わず本音が漏れる。
なぜ未経験のくせに、熟練のエロオヤジのような台詞が吐けるのか。
とりあえず、いきなり無体を働くつもりはなさそうなことに安堵しつつ、ルネは念のために釘を刺した。
「ま、人間の寿命は短いんだから、気長に構えるのもほどほどにしなさいよ?」
「大丈夫やで。ソーニャは死んだら神になるから」
「……へ?」
もはや会話のドッジボールである。
混乱するルネに対し、乙彦はイアポニアに伝わる“人柱”の伝承を静かに語り始めた。
大雨や日照りなどの自然災害。
城や橋といった大規模建造物の失敗や破壊。
それらは水神の祟りと考えられていた。
その怒りを鎮めるために、生きた人間を土に埋め、水に沈める。
それが――“人柱”。
この“柱”というのは、神を数える際に用いられる序数。
つまり、神に供物となった者は死後、神になるのだ。
「ソーニャ、あの夜、うちに全てを捧げる覚悟を持ってここに来たやろ? 他人の命を救うために自分を差し出す――その献身こそが、人柱の最たる条件なんや」
神は人間の命が欲しいわけではない。
その身を捧げる魂の輝きを愛でて、願いを聞き届けるのだ。
「このまま海宮で人としての一生を終えたら、『水中で生を全うした』っていう最後の条件が揃う。そうしたら彼女はここの土地神になる。――そうしたら、もう、うちからは離れられへん」
清艶な笑みを浮かべる乙彦は優美な姿をしていても、やはり残酷で荒ぶる水の神だった。
「今生だけやない。来世も、その先も……未来永劫、ずぅっとな」
イアポニアの神は不老不死だが、イザナミのように事故など突発的な要因で死ぬことはある。
そんな場合でも、魂の結びつきは離れることはない。
(こいつ……死後まで縛り付けるつもり!? なによ、人柱って、呪いの契約じゃない……!)
ルネの背筋に冷たいものが走る。
だが、神にここまで愛し抜かれたら、もう諦める他はないだろう。
幸い、ソーニャの方も、乙彦を憎からず想っているのだから。
好いた男にこれほど執着されれば女冥利に尽きるというものだ。
ルネはソーニャに同情しつつつも、どこか羨ましい気持ちになった。
「随分とまあ、惚れ込んだわね」
「仕方ないやん。散々辛い目に遭わされてきた子ぉが、それでも他人のために自分を犠牲にしようとしたんやで? あんな心が綺麗な子、惚れるしかないやん」
乙彦は心底幸せそうに目を細めた。
泥の中に根を張りながらも、決して汚れに染まらず凛と咲く。
初めて会ったその日から、蓮の花のようなソーニャの魂に、彼は完全に射抜かれていたのだ。
「でも……なあ、どっちがええと思う?」
「……何がよ」
どっちがって、ドレとソレがアレなのよ。
心配して損したという徒労感で、ルネの返答はぞんざいになる。
「赤ちゃん、どっちが産もうかなって。ソーニャに大変な思いさせたくないから、うちが産むんは全然ええんやけど。ほら、産後は体型が崩れるとか言うやん? うちの美貌が崩れても、ソーニャ、変わらず愛してくれるかなぁ……」
「知るわけないでしょ!!」
あまりにバカバカしい悩み相談に呆れたルネは吐き捨てるように言い残し、全力で踵を返した。
◇
帰り際、桟橋まで来ると、そこには磯姫の澪が待ち構えていた。
ゾッとするほど整った顔を般若のように歪めている。
ルネの生存本能が割れんばかりのアラートを鳴らした。
「ルネ、ちょぉ待ち」
「澪ちゃん、久しぶり。 ごめんね、今、少し急いでて……」
「待てぇ、ゆうとるやろ」
「……はい」
逃げられない。
こうなった時の彼女は、渦潮よりも厄介だ。
「なあ、これ。うち、いわゆる『当て馬』っちゅうやつ?」
「うん……まあ、物語の構成上、結果的には、そうなっちゃうのかなぁ、なんて……」
水神よりも荒ぶる澪。
触らぬ神に祟りなしで、なんとかこの場を切り抜けたいルネは口籠る。
「あの地味ブスが、アンタの手引きでちょっとマシになったんも、うち知ってんねんで!」
「ああ、それは……でも、そもそもは澪ちゃんがソーニャを焚き付けたのがきっかけっていうか……」
「だ、か、ら! そういうのを、世間では当て馬って言うんやろがぃ!!」
乙彦が幸せになったことは嬉しい。
だが、その隣にいるのが自分ではないという事実は、誇り高き彼女のプライドをずたずたに引き裂いていた。
「うち……『負けヒロイン』やったんや……。ずっと、ずっと好きやったのに! あんなポッと出の小娘に……ホンマ、なんなん! もう!」
当て馬といい、負けヒロインといい、どこでそんな下世話な言葉を仕入れて来たのか。
案外、澪は人間のことが好きなのかもしれない。
「げ、元気出しなよ。澪ちゃんは超美人だし、他にいい男なんて腐るほどいるから、ね?」
「……乙彦様は一人しかおらんもん……」
一途なのは、彼女もまた水の妖である証だった。
しかし、人気のある当て馬には救済措置があるのが世の常だ。
番外編かスピンオフで、幸せになれる……はず。
「ほな、そのスピンオフっちゅうの、今すぐ書いてや!」
「いや、スピンオフっていうのは、まずは本編があってのことで……」
「じゃあ、その本編、うちが口頭で書いてあげるから、アンタは光の速さで完成させなさい!」
この日を境に、ルネが過労死寸前まで馬車馬のごとく働かされたのは言うまでもない。
そうして出来上がったのは結局は最初からスピンオフの、澪を主役とした超大作夢小説。
これが、意外にも王都の令嬢たちの間で空前の大ヒットを記録するのは、もう少し先のことである。
ご覧いただきありがとうございます!
完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




