第109話 水神の婚約と元国宝
「王家の影もクラウディアのものとなり、護衛はもう十分だ。ゆえに、その任を解く。今までご苦労だった」
ラドクリフ・リーベル公爵の声は、いつもと同じ穏やかさだった。
だがその言葉は、ソーニャの胸に思いがけない重さで落ちた。
執務室の窓から差し込む午後の光が、床に長い影を落としている。
ソーニャは一瞬、言葉を失った。
「あの。え……」
思わず声が漏れる。
任務の終了は、いずれ来ると分かっていた。だが、それはもっと先のことだと思っていたのだ。
公爵はそんな彼女を見て、わずかに目を細めた。
「大丈夫だ。クラウディアから聞いている。水の妖の王と心が通じたこと。番として認め合ったこと。そして――海宮へ嫁ぐこともな」
「……」
一瞬の沈黙。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
やはり、主はすべてを知っていたのだ。
ソーニャは背筋を伸ばし、深く深く頭を下げた。
「今まで、本当にありがとうございました」
言葉を選び、噛み締めるように続ける。
「公爵様のことを、お慕いしておりました。勝手ながら……父のように」
無表情の中で、彼女はほんの少しだけ唇の端を上げる。
ソーニャは生まれてすぐに孤児院の前に捨てられていた。
両親の顔も、名前も、血筋も何一つ知らない。
過酷な環境にいた幼い自分を拾い上げ、温かい寝床と食事、そして血まみれのこの手を誰かを守るために使うことを教えてくれたのが、この公爵だった。
ずっと心惹かれていた。
でも、抱いていた思慕は恋ではない。
それは親を知らぬ少女が抱いた、切実なまでの憧憬だった。
公爵は満足そうに頷いた。
「ありがとう。では、旅立つ娘にこれを」
そう言って机の引き出しから小さな箱を取り出す。
しかし、差し出しながら、少し困ったように眉を下げた。
「といっても、クラウディアからのプレゼントだがね。元国宝だと言っていたんだが……何のことかわかるかい?」
ソーニャがそっと蓋を開けた瞬間、深紅の光が箱の中で静かに揺れた。
透明度の高い、見事なピジョンブラッド。
――元国宝
――王妃のティアラから消えた大粒のスタールビー
――食べたと言っていたジャスパー
「……あは……!」
ソーニャは声を上げて笑った。
これまでの彼女からは想像もできないほど、無邪気に。
ああ、なるほど。そういうことか。
仕えた主人は1人の体に2つの人格を宿していた。
仮にも国宝に対してのこの暴挙は、あの口の悪い異星人の趣向だろう。
ニィナはクラウディアのことを地味で根暗だと言っていたが、おそらくは元はお転婆だったのではないか。
悪友の所業をあのお姫様は止めるどころか面白がったに違いない。
楽しくかけがえのない日々だった。
本当に。
「今まで本当にありがとうございました。任は離れますが、必要になればいつでも馳せ参じます」
◇
海の底の空気は、王都とは違う匂いがする。
久しぶりの海宮だったが、乙彦の心を反映して、前よりもさらに眩しく輝いている。
周囲を泳ぐ魚たちも、まるで2人を祝福するかのように光を反射しながら舞っていた。
「こちら、クラウディア様から賜った婚約の印です」
乙彦に差し出したのは、ソーニャが身につけているパライバトルマリンと同じ、雫型のカットが施されたルビーだった。
同じカラット、対になる輝き。
あの日、ジャスパーが美味しくいただいたスタールビーの未消化分を、体内で丹念に再構築して作り上げた、世界に唯一つの結晶だ。
王妃のルビー(元)は、水の妖の長との婚約の証として、これ以上ないほど相応しかった。
「似合う? ソーニャの瞳と同じ色や」
血の色の宝石を胸に下げた乙彦が、ソーニャの顔を覗き込む。
自分の美しさを知っている男の、自信に溢れた顔だ。
「はい。……憎らしいほど、綺麗ですよ」
ソーニャの褒め言葉に、乙彦はさらに嬉しそうに笑った。
「おもうさんに挨拶に行こうな」
「……お父様は今どこへ?」
「ルネにあげた宝具を拾った場所や」
ソーニャの目が、わずかに鋭くなる。
あの宝具は、この星のものではないと聞いた。
ジャスパーと同じように、この星に降り立った異星の知的生命体が、他にもいたということだ。
同等の知能、分析機能。
そして、なによりもやっかいなのは、宿主に寄生し、違和感なく擬態できる能力。
――もし敵に回せば、これ以上ない脅威になるだろう。
クラウディア様は何も言わなかったが、内心では宝具を拾った場所について、詳しく知りたくてたまらないはず……。
しかし、そこは一族の中でも厳格に秘匿された聖域だという。
ソーニャの葛藤とは逆に、念願の番を手に入れた乙彦は浮かれまくっていて、彼女の表情が曇ったことに気が付かない。
「……」
――相談しようかと思ったが、止めた。
心優しい彼に、まだ何も分からないうちから負担をかけるのはよそう。
ソーニャは気持ちを切り替えるように、うん、と頷く。
そして、ソーニャは意を決して、不慣れな仕草で乙彦の肩にそっと頭をもたれさせた。
「……っ!! え!?」
「……あの……甘えて、みたのですが、やり方……間違って、いましたか?」
ルネに教わったのは、美容や礼儀だけではない。
乙彦を喜ばせたくて……ううん、違う。この、形容しがたい胸の熱を伝えるため。
ただ身を預けて、この温もりを分け合いたくて――
でも、やっぱり上手くできなかったみたいだ。
無表情のまま、気まずそうに離れようとするソーニャを、乙彦は慌てて引き留め、その小さな手を両手で包み込んだ。
「うちのこと、こんな乱して……もう、絶対離してあげられへんからね?」
「私はもう、覚悟を決めていますよ。乙彦様こそ、もし心変わりなどしたら……分かりますよね?」
元凄腕アサシンの言葉は、冗談に聞こえない重みがある。
「絶対ない。もし裏切ったら、このネックレスで縊り殺してええよ」
ひどく物騒な話をしているのに、乙彦の顔は幸せに溢れている。
その歪なまでの執着が、ソーニャには何より心地よかった。
破れ鍋に綴じ蓋。
案外、お似合いの夫婦になるのかもしれない。
◇
極楽浄土の花は、ある朝、本当に「ぽん」と小さな音を立てて咲いた。
それは、ほんの一瞬の音。
だが、二人だけが、その音を確かに聞いた。
泥の中から咲く花は、静かに、確かに。
ご覧いただきありがとうございます!
完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




