第108話 王家の影
王都の騒動が落ち着いた昼下がり、リーベル公爵家の門を叩く者がいた。
公爵邸の応接室の重厚な扉が閉じられた瞬間、外界の喧騒が断絶され、密室に濃密な静寂が降り積もる。
壁に掛けられた名画、爆ぜる暖炉の炎、微かに漂う上品な香。
マホガニーウッドの重厚なテーブルの上には革製のチェス盤。
白と黒の大理石で作られた駒は繊細な彫刻。
そのすべてが、訪れる者を“監視”し、“選別”するための装置であることを、この男は一瞥して理解した。
この部屋では、発せられる言葉だけでなく、瞬き一つ、呼吸の揺らぎさえも精密に測られる。
ラドクリフの前に現れたその男は、あたかも風景の一部が凝固したかのような、異彩な存在感を放っていた。
艶のある黒髪、整った目鼻立ち。
客観的に見れば美貌の部類に入るはずだが、不思議と“美男”という感想が湧かない。
目も、鼻も、口も、すべてが完璧な均整を保っているがゆえに、記憶に留めるための“引っかかり”がどこにもないのだ。
視線を外した瞬間、砂時計の砂のように意識から零れ落ちる。
無理に思い出そうとすれば、先ほど廊下ですれ違った別人の顔が紛れ込む。
年齢すら定まらない。四十路の老成を湛えているようにも見え、二十代の若さが覗くこともある。
人の認識という網から滑り落ちるために、一族の血と歳月をかけて設計された“影の顔”――そんな男だった。
ラドクリフ・リーベル公爵は、革張りの椅子に深く腰掛けたまま、静かに男を見据えていた。
齢40を超えてもなお褪せない美貌。
その視線は柔らかい。
だが、その奥底にある瞳は、冷徹な棋士のそれだった。
相手を値踏みしているのではない。“この駒を、どこへ配置し、どう機能させるか”を既に完結させている目だ。
「――用件を聞こうか」
短く、氷のように研ぎ澄まされた一言。
それだけで、この場の主導権が完全に公爵の手中にあることが示される。
男は音もなく一礼し、淡々と語り始めた。
国王エルドリック殺害の経緯。
そして実行犯が己の父、王家の影の頭領であること。
背景には、クラウディア毒殺未遂の責を負い、王により処断された長男ジャン。
「それ自体、特に異はありませんでした」
兄の死を語る男の声には湿り気はない。
情を押し殺しているようにも見えなかった。
「王家の影は、王に捧げられた刃。折れることも、使い潰されることも、最初から織り込み済みです」
事務的な説明。
しかし、その語尾にわずかな“歪み”が混じった。
「――ですが、王エルドリックが実子であるユリシーズ殿下を、保身のために切り捨てたあの瞬間。父は確信したのです」
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
「この男は、己のことしか愛していない。血も、忠誠も、いずれは国すら、必要とあらば躊躇なく捨てる。そのような輩は、もはや王の器ではない、と」
それは冷酷な断定だった。
私怨という矮小な感情を超えた、刃としての審判である。
一族の歴史はイアポニアの、戦国と呼ばれた激動の時代にまで遡る。
“御庭番”として、時の権力者に従い、繁栄してきた一族。
一度仕えた主君に最後まで殉じて死ぬ侍とは違い、時世と人を常に見ながら、必要に応じて仕えるべき主君を乗り換える狡猾さで生き残ってきた。
「ゆえに、父は刃を向けました。そして、任を果たしたのち……父は腹を召しました。介錯人である私の剣を、鋭い眼光で制し――見事、三文字に切り裂いたのです」
三文字。
その凄絶な意味を、ラドクリフは即座に理解した。
一本目は、主君である王エルドリックを弑逆した大罪。
二本目は、エルドリックの命により先王の娘ベアトリス(クラウディアの母)を毒殺した不忠。
三本目は、愚王に従い、民の呻きを黙殺し続けた自責。
その三つの断罪を、己の臓腑に刻み込み、頭領は果てたのだ。
長い沈黙の後、ラドクリフはゆっくりと、熱い吐息を吐き出した。
「……見事だ。実に見事と言うほかはない」
愛する妻の命を奪った男に対する言葉としては、不自然な賛辞。
怨嗟の欠片も感じさせない、淡々とした声音だった。
それは敵対していた者の凄絶な散り際に対する称賛か。
あるいは散った道具への哀悼か。
いずれにせよ、ラドクリフは王家の影という名の一族を断罪する気はないようだ。
「報告に感謝する。して、君の名は何という?」
男は、わずかに首を横に振った。
「私個人の名は、父の返り血と共に捨てました。今後は父の跡を継ぎ、当代の“服部半蔵”を名乗ります」
伝説の忍の名を襲名した男は、深々と頭を下げた。
「つきましては、我らは王家の影は今後、公爵家の配下につきたく存じます」
恭しく屈めた背中には、塵ほどの隙も存在しない。
ここまでのラドクリフの言動に一定の評価は得られたようだが、かと言って完全に従属するほどではないのだろう。
(なるほど。“次の食い扶持”として、私を選別したに過ぎないか)
この青年の腹の底は、その掴みどころのない容貌と同じく、一筋縄ではいかない。
だが、そのくらいでなければ、この激動の盤面で使い物にはならないだろう。
ラドクリフは卓上の盤に視線を落とした。
黒と白の駒が静まり返るなか、彼は一つ、黒の駒を指先でつまみ、静かに進めた。
「クラウディアを守りなさい」
それは絶対的な命令であり、同時に新たな“配置”の宣告だった。
チェスにおいて、取られた駒が盤上に戻ることはない。
だが、イアポニアの将棋という遊戯では、捕らえた敵兵を自軍の戦力として再配置できるという。
敵兵を殺すのは容易だが、それを取り込み、使いこなすのは至難の業だ。
従属の姿勢を見せていても、ひとたび主として不適格と見なされれば、その切っ先は即座に自分の喉元へと向けられるだろう。
食うか、食われるか。
ラドクリフはあえて背中を預ける道を選んだ。
「もちろん、君が彼女を主君と認められたら、の話だがね」
男が顔を上げる。
その瞳には、ほんのわずかに――血が沸き立つような、愉悦の光が宿っていた。
「御意」
短い返答。
このような怪物を飼い慣らせるかどうかは、クラウディアの器量次第。
だが、既にその身の内に“異類異形”を宿している彼女のことだ。
いまさらもう一匹増えたところでどうということはないだろう。
暖炉の火が、一度大きく揺らぎ、静かに盤面を照らし続けた。
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完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
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