第107話 ラグナと後継者
宰相ラグナが、辺境の捨て地イアポニアに異常なまでの関心を持ち始めたのは、もう随分と前のことだった。
あのクラウディアが、自らの冤罪を晴らした代償として、あえて指名し、所望した土地。
そこに何もないはずがない。
それがラグナの直感だった。
だが、調査は難航した。
派遣された歴代の管理人や部下たちは揃いも揃って、汚職や失態で左遷された役人ばかり。
しかし、ラグナが何気なく現管理人イブリムの人事記録を深掘りしたところ、驚くべき事実が浮かび上がった。
彼は汚職に手を染めたのではなく、むしろ上役の不正を告発した結果、組織的に嵌められたのである。
「……なるほど、そういうことか」
真実よりも爵位が、正義よりも生まれた家の力が優先される王都の縮図。
ラグナ自身、弱小貴族の出身から、知略と腹芸だけで這い上がってきた男だ。
不正を許さず孤軍奮闘し、結果として捨て地へ追いやられたイブリムという男に対し、彼は奇妙な同情を禁じ得なかった。
ラグナは当初、中央復帰を餌にイブリムから情報を引き出そうとしたが、返ってきたのは「結構です」という素っ気ない断りだけ。
手紙はことごとく空振りで、差し向けた使者は管理事務所の門を潜ることもできなかった。
結局、何一つ実りがないまま、あの日――王都襲撃の日を迎えることとなった。
◇
動乱が収まり、クラウディアが王城へと居を移した頃。
これまで沈黙を貫いていたイブリムが、突然、一人の若者を連れてラグナの執務室を訪れた。
「お目にかかるのは初めてですね、宰相閣下」
イブリムは、これまでの攻防など無かったかのように、穏やかな笑みを浮かべていた。
その表情からは何も読み取れない。
僻地での長い年月は、実直で融通の利かないくそ真面目な男を、捉えどころのない狸へと変貌させていた。
「……ええ。直接お会いするのは、ね」
ラグナは、目の前の男の真意を測りかねていた。
しかしこちらも一筋縄ではいかない老獪な狐。
散々ちょっかいを出したことへの意趣返しか、あるいは――と思考を巡らすラグナに、意外な言葉がぶつけられた。
「まずはお礼を。私の過去の冤罪を晴らし、王都に残っていた親類を救ってくださったことに」
行きがかり上とはいえ、知ってしまった不正を放置できないのがラグナの性分だ。
イブリムの従兄弟にあたる下級官吏が、能力に見合わぬ不遇な待遇にいるのを見かねて、彼の階級を引き上げた。
更に、王都襲撃に連なる罪に挙げられた貴族の粛正ついでに、ラグナや部下の一族の汚名についても密かに抹消しておいたのだ。
それは狡猾なラグナらしからぬ、見返りを求めない一方通行の善行だった。
「別に……あなたのためではありませんよ」
テンプレ通りのツンデレ発言だが、ラグナにとっては本心だった。
貴族社会の理不尽な力学が気に入らなかった。
ただ、それだけだ。
「お礼と言ってはなんですが、今、王城は人手不足と聞きまして。不肖の息子ですが、お役に立てるかと思い、連れて参りました」
紹介された青年――アズハは、ラグナの眼前に一歩踏み出した。
イアポニアでも珍しい、半分人、半分狐の血を引く青年だった。
「私と違い、腹芸のできる子です。きっとお役に立てるかと」
薄茶色の柔らかな髪に、ところどころ黒褐色の硬い髪が混じっている。
銀縁のモノクルの奥にはオッドアイ。
細身で端正な塩顔の美青年である。
……ただし、その頭上には、ぴんと直立したもふもふ、“狐の耳”があった。
ラグナは眼鏡の奥の瞳を細め、暫しの間、じっと彼を真顔で見つめてから、徐に尋ねた。
「……ちなみに、どちらの耳が本物ですか?」
「一番気になるのはそこですか!?」
たまらずイブリムが吹き出した。
これまでのやり取りを通じて、互いのこじらせた人となりを理解していたのだろう。
もどかしい距離感にあった中年男性二人の間に、一気に親近感の風が吹き抜けた瞬間だった。
ちなみに狐耳と尻尾は、紅葉譲りの変化能力の名残で、機能的には意味を成さない。
しかし妻の紅葉に言わせると、それは単なる飾りではなく、“様式美”というものらしい。
それが良い物だからこそ、普遍的なのだ、と。
イブリムにはよく分からない理屈だったが、可愛いことには間違いなかったので、良しとしていた。
◇
アズハは宰相補佐見習いとして働き始めたが、その仕事ぶりは若き日のラグナを彷彿とさせた。
冷静沈着、理詰めの進行。
状況に応じて瞬時にペルソナを使い分ける器用さ。
イブリムが身贔屓で推薦したのではないことは、数日で証明された。
能力だけでなく、人となりも信頼に値すると確信したラグナは、アズハをクラウディアに引き合わせることにした。
「紹介します。私の補佐を務めるアズハです」
アズハは完璧な宮廷礼を見せ、流麗な所作で応じる。
「アズハと申します。父はイブリム、母は紅葉です」
実際、アズハはよく働いた。
「別に陛下のためではありません。国家運営の効率化のためですから」
そう毒づきながら、彼女が持ってきた無茶な政策案を、徹夜で完璧な実行プランに仕立て直して提出するあたり、見事なツンデレである。
「ありがとう。貴方のように優秀な人が来てくれて助かっているわ」
ストレートな感謝の言葉を口にするクラウディアに、アズハの狐耳がぴくりと動いた。
無表情のまま、後ろでは尻尾がパタパタと左右に激しく振られている。
狐がイヌ科の生き物であることを雄弁に物語るその反応。
それを部屋の隅のデスクで見ていたラグナは、ふっと口元を緩めた。
権謀術数渦巻く王城で、素直さは足枷にしかならない。
しかし、ポーカーフェイスを無効にする狐の耳と尾は、クラウディアにのみ反応するものらしい。
ツンケンした言動で誤解されがちなアズハにとって、それは最大のチャームポイントとして機能していた。
なるほど、“様式美”とはこういうものかと、ラグナは一人納得した。
◇
罪人の処断、大公国との緊迫した交渉、食糧危機の対応、復興事業。
山積していた国難がようやく片付いた頃、宰相ラグナは静かにその任を退いた。
表向きの理由は高齢による引退。
だが実際は、長年の心労と激務による胃の限界だろうというのが、王城でのもっぱらの噂だった。
国のため、生涯独身を貫いた彼には実子がいない。
そんな彼が、半妖の青年を養子として迎え、後継者として家督や爵位全てを譲った。
事情を知らぬ者たちは驚愕したが、ラグナの周囲にいる人間にとっては、至極自然な流れに思えた。
引退後、ラグナは若い頃に地方官吏として過ごした、王国の西のはずれの領に戻った。
山間にある小さな家。
川のせせらぎ以外の音が無い、静かな場所。
暖炉の前のロッキングチェアに腰掛け、膝の上にはエレンと名付けられた栗色の猫。
胸元には、銀の指輪を通したネックレスが揺れる。
かつての“鉄の宰相”を知る者からは想像もつかないほど、穏やかな時間がそこには流れていた。
時折、継嗣であるアズハが遊びに来ると、彼は手製の料理と、地方の強い酒でもてなした。
“暴れ馬”の手綱を握るアズハの苦労譚に耳を傾けながら、ラグナはかつての自分を重ねるように表情を緩める。
そして帰り際、たくさんの土産物と一緒に、そっと特製の胃薬を持たせたという。
その顔は、紛れもなく一人の慈愛深い父親のそれであった。
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