第106話 石蕗と泰山
王都襲撃という未曾有の国難から一年。
焼け落ちた城壁も、瓦礫の山と化していた街路も、今ではほとんどが元の姿を取り戻している。
新しく積み直された石灰岩の白さが、古い石の煤けた色との鮮やかなコントラストを描き、それがかえって“国難を乗り越えた証”として街の歴史に深く刻まれていた。
石畳のわずかな隙間からは、生命力に満ちた春の草が瑞々しく顔を出している。
まるで、この街そのものが力強い呼吸を再開したかのように。
クラウディアが打ち出した政策は、劇的な速度で実を結んでいた。
かつて貧困にあえいでいた地方領地には緻密な配給網が整備され、飢えの恐怖は過去のものとなりつつある。
さらに彼女が導入したサツマイモ栽培は、痩せた土地でも確実な収穫をもたらした。
役所の倉庫には、正確な人口調査に基づいた配給台帳が整然と並ぶ。
そこにはもはや、貴族への忖度も、身分による差別も存在しない。
畑を見れば、人間と妖が肩を並べて同じ土を耕し、共に鍬を振るっている。
立ち上る土の匂い、流れる汗の匂い。そして、サツマイモの葉が放つ、かすかな甘く青い香りが風に混じる。
「そっちは植え方が浅いぞ、もっと深くだ」
「わかってるって、こっちは任せろよ」
ダイヤモンド利権によってもたらされた莫大な利益は、教育と医療へ大胆に投じられた。
義務教育の導入――それは、子供たちから無知という名の鎖を解き放つ、王国史上最大の試みだった。
親のある子も、身寄りのない子も、同じ教室で同じ教本を開く。
文字を覚え、数字を扱い、地図を読む。
それは自分の人生を運命という不確かな言葉に委ねるのではなく、自らの意思で選択できる権利を手に入れたことを意味していた。
給食の配膳や掃除を子供たち自身で行う習慣も、勤労と協力の精神を静かに、しかし深く彼らの心に根付かせていった。
服飾の流行もまた、劇的な変化を遂げていた。
かつての、コルセットで内臓を押し潰し、身体の凹凸を過度に強調する装飾過多なドレスは廃れ、イアポニア風の柔らかなシルエットが主流となった。
締め付けから解放された身体は、女性たちの思考をも自由にする。
それに伴い、貴族女性たちの社会進出も目覚ましい進展を見せていた。
「美しさとは、苦しみの上に成り立つものではない」
ルネが提唱したその思想は、今や新しい時代のスタンダードとなりつつあった。
◇
一方、王都外れの訓練場では、今日も鋭い怒号が響き渡っていた。
「遅い! 剣筋が死んでいるぞ!」
将軍・泰山の雷鳴のような声に、新兵たちの動きが一斉に引き締まる。
その隣では、副官となった息子の石蕗が、兵たちの構えを丁寧に正し、具体的な助言を与えていた。
強さと威厳は申し分ないが、言葉の足りない父を、繊細で目配りの利く息子がフォローする。
正反対の資質を持つ親子の絶妙なバランスにより、王国軍の錬成はかつてない純度で進んでいた。
「はーい、おしぼりと冷たいお水、あとおにぎりだよ! まだ貰ってない人いる?」
休憩時間になると、向日葵のような明るい声が広場に響く。
半年前から鬼の里へ帰っている紋女の代わりに、騎士団の世話係として奔走している茜だ。
「石蕗さん、茜ちゃんと幼馴染って本当ですか?」
「ずるいですよ、あんな可愛い子と。今度、個人的に紹介してくださいよ!」
血気盛んな新兵たちの盛り上がりに、石蕗は露骨に眉をひそめる。
「お前ら、趣味が悪いな。あんなお転婆のどこがいいんだか」
「いやいや、世帯を持つならああいう元気で愛嬌のある子ですよ! 何気にスタイルも抜群ですし。あの胸元、目のやり場に困るっていうか」
男たちが集まれば、話題は自然と下世話な方へと流れる。
鬼にしては小柄な茜だが、コルセットによる補正を一切必要としない健康的な曲線美は、独り身の兵士たちには目の毒らしい。
「え? アイツが?」
100cmを優に超える爆乳、紋女を母に持つ石蕗にとって、クラウディア(何がとは言わないが、AA)も茜(以下同文、F)も、誤差の範囲でしかなかった。
「今はなんか上手に猫被ってるみたいだけど、騙されるなよ。アイツは昔、俺に罪をなすりつけようとしたんだぞ」
子供の頃、石蕗の家に遊びに来ていた鬼の子たち皆でお昼寝をしていた時に、オネショをしてしまった茜。
茜は隣で寝ている石蕗と布団を入れ替えて、オネショを石蕗のせいにしようと画策したのだ。
もちろん、茜の下着が濡れていたことですぐにそのトリックは露見したのだが、石蕗にはしばらく“オネショマン”という不名誉な渾名がついたのだという。
「焼き芋を半分に割って分けるときはいつも問答無用で大きい方をぶん取るし、喧嘩したらすぐ蹴ってくるし、それに」
「つーわーぶーきー? 一体、何の話をしてるのかなぁ?」
「うっわ、相変わらずこえぇな。ほら皆、見てみろ、これがコイツの本性だって」
石蕗の後ろから仁王立ちで声をかけてきた茜。
その渾身の蹴りをなんなく躱したかと思うと、そのまま脱兎の如く逃げ出す石蕗。
王国軍の副官になってというのに、まだどこか頼りない石蕗の背中を見ながら、茜は密かに思う。
(今はクラウディア様のことが好きでもいい。いつか、すぐ近くにいる私に気がつく時が来る……きっと、きっと、ね)
◇
訓練が終わり、泰山と明日の予定を確認していた石蕗が、ふと前から抱いていた疑問を口にした。
「そういえば……母上は、まだ戻ってこないのか?」
常日頃から「旦那様大好き、泰山ラブ」を公言して憚らない紋女が、これほど長く夫を独りにするのは極めて異例だ。
「……喧嘩でもしたのか?」
「いや……そうではない。アレは、その……体調が、な」
いつになく泰山の歯切れが悪い。
その様子に、石蕗の顔色が瞬時に変わった。
「嘘だろ、あの母上が病気? なんでそんな平然としてるんだよ! 今すぐ鬼の里に帰らなきゃダメだろ! 母上は父上がそばにいないと死んじゃうのに!」
「石蕗、落ち着け」
「落ち着いてられるか! 半年も里で寝込むなんて、何か大きな病気だろ!?」
鬼族らしく常に強く逞しい母、紋女。
風邪ひとつひかなかった母が、そんなにも長い期間、体調が戻らない。
最悪な想像に取り憑かれた石蕗が大きな体であわあわとしている一方、泰山は泰然自若とした態度を崩さない。
「……騒がしい。精神を鍛えろと言っただろう」
泰山はわずかに視線を逸らし、大きく一つ息を吐いた。
石蕗にどう伝えるかを散々迷った挙句、今の今まで持ち越してきた。
しかしさすがにもう、隠してはおけない。
地の底から響くような重低音の声で、ゆっくりと告げる。
「しっかりしろ。来月には、お前は『兄』になるのだからな」
一瞬、時が止まった。
石蕗の思考回路が完全に停止し、数秒の静寂が降りる。
「…………は、はああああああ!?」
訓練場に、魂の底からの驚愕が響き渡った。
バツが悪そうに明後日の方向を向き、茜特製のバクダンおにぎりを無言で齧る泰山。
石蕗はその背中に絶叫した。
「どの口が『老い先短い』なんて言ったんだよ!!」
復興作業が一段落した後の里帰り。
賑やかな花祭の夜。
冬空の下で枯れ木に花が咲いたらしい。
ぎゃあぎゃあと騒ぐ石蕗と照れ隠しで黙りこむ泰山。
正反対の親子の仲睦まじい姿を、鍛錬場にいた者達は温かく見守った。
◇
戦争は、多くのものを壊し、奪い去った。
だが同時に、耕し直された土壌からは、新しい生命が、新しい絆が、より強く、よりしなやかに芽生え始めていた。
春の風が吹く。
再生の匂いを運びながら。
王都は確実に、眩い光の方へと変わり始めていた。
ご覧いただきありがとうございます!
完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




