第105話 春風のユリシーズ
ユリシーズの遺体が塔の下で発見されてから、3日が経った。
王城の北側にそびえる物見の塔は、春の陽光とは裏腹に、凍りついたような静寂に包まれている。
塔の周囲には厳重な人払いがなされ、近づく者はいない。
元王族の事故死。
ましてや、つい先日まで王太子であった者の最期となれば、その処理は極めて慎重に進められなければならない。
公的な記録に残る一文字が、後世における国の歴史を決定づけるからだ。
塔の下では、役人たちが表情を消し、淡々と報告書をまとめていた。
「転落事故、ということでよろしいですね」
書記官の事務的な問いに、宰相ラグナは短く、重く頷いた。
「……ああ」
それ以上の言葉は不要だった。
塔の最上階では、侍従たちが遺品の整理を始めていた。
幽閉の場であったその部屋には、驚くほど物がなかった。
一台の寝台。小さな机。一脚の椅子。
壁にも棚にも、かつての栄華を象徴する装飾は何一つない。
机の上には、数枚の書きかけの手紙が散らばっていた。
書記官がそれを拾い上げ、内容を目にした瞬間に眉をひそめた。
「……これは。宰相閣下」
「どうした」
「内容が……その……王族の記録として残すべきものではないかと」
紙には、何度も何度も書き直された跡があった。
インクの滲み、破りかけの端、途中で力尽きたように止まった筆致。
書き出しはどれも幼い頃の追憶。
しかし書き進むうちに内容は支離滅裂となり、正気が疑われるものばかりだ。
「……これも、他の書類と共に処分しておきますか?」
ラグナは一瞬だけその紙束に視線を走らせ、すぐに逸らした。
「ああ。頼む」
紙束が回収袋に入れられようとした、その時、寝台の奥を調べていた侍従が声を上げた。
「閣下、こちらに箱がございます」
引き出されたのは、小さな木箱だった。
埃を被り、古びた質素な作り。
ラグナが静かに命じた。
「開けてみろ」
蓋が開けられる。
中には、変色したリボンと古いハンカチ。
そして――ひとつの銀の指輪。
「婚約指輪……でしょうか」
侍従から手渡された銀の輪を、ラグナは無言で受け取った。
何の装飾もない、王族の持ち物とは思えないほど粗末な品。
だが、その裏側に刻まれた文字を目にした瞬間、ラグナの指先が、目に見えぬほど微かに震えた。
――“R to E”
その刻印が、封印していた古い記憶を引きずり出す。
柔らかな陽射し。
風に揺れる白い花と栗色の巻毛。
ラグナが王城に仕える前。
地方の役人として、平穏な未来を信じていた頃の婚約者。
「山と川の近くの、緑がいっぱいの小さな家で、あなたと静かに暮らすのが夢です」
春の陽だまりの中で誓った、ささやかな約束。
だが、その未来は無惨に断たれた。
行儀見習いとして王城や高位貴族の家へ出仕するのは、結婚前の下級貴族の令嬢の慣例であった。
期限付きで侍女の職を得て王城へ上がった彼女は、ある日突然、帰らぬ人となった。
届いた知らせは、理由も詳細もない「病死」の二文字のみ。
遺体さえ戻されなかった。
真相を探る目的で地方から王都へ。
王城勤めとなったラグナは、嫌でも真実を知ることになった。
王に手籠めにされて妊娠した王妃の侍女。
それが、よりにもよって男児を産み落としてしまった。
王妃との間に子供はいなかったのに、王位継承権第一位となる王子が、側室ですらない女の腹から生まれたとあっては、あまりにも外聞が悪すぎる。
ゆえに、出産後すぐに母親から赤子は取り上げられ、王妃の子供として育てられることになった。
婚約者に顔向けできない体にされた上、子供まで奪われた。
命を絶つには、十分すぎる理由だっただろう。
ラグナは深く、長く、吐息をついた。
「……そうか。殿下は、ご存知だったのだな」
彼は静かに箱を閉じる。
真相を知った後もラグナが王に仕え続けた理由は、婚約者の忘れ形見であるユリシーズの成長を側で見守るため。
彼女譲りのふわふわした栗色の巻毛。
天真爛漫だった笑顔がいつしか歪んだものになり、王城はおろか城下でも“夢の王子様”(頭が春、つまりはアホ)と揶揄されるようになった。
愚かで短絡的なユリシーズの世話は胃を傷めることばかり。
それでも、どうしても、見離すことができなかった。
血の繋がりはなくとも、ラグナにとって愛する女の子供は息子だったのだ。
「これは私が預かる。……それから、この手紙は、やはりクラウディア様へ」
◇
手紙を、クラウディアは静かに受け取った。
山のような公務の書類の中に置かれた、数枚の歪な紙。
彼女の瞳が、ほんのわずかに細くなる。
窓の外では春の風が木々を揺らし、遠くで噴水の水音が心地よく響いている。
クラウディアはしばらく、その手紙を見つめていた。
そこには、虚勢と、迷いと、怒りと、
そして最後には――すべてを諦めたような一文が綴られていた。
「そう……あの人は、夢の中で死んだのですね」
その声は、どこまでも凪いでいた。
表情からも何一つ読み取れない。
薄情だとクラウディアを詰る事はできなかった。
ラグナ自身にも覚えがあるそれは、執着も、憎しみも、悲しみさえも、すでに通り過ぎたあとの静寂だったからだ。
ただ、塔の部屋から吹き込んだ春の風だけが、机の上に残された最後の手紙を、一枚、また一枚と、床へ落としていった。
まるで遠い昔の午後。
芝生の上で笑っていた2人の子供の記憶を。
結ばれるはずだった若い恋人達の囁きを。
ほんのわずかに、今の世界へ呼び戻すように。
ご覧いただきありがとうございます!
完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




