第103話 微睡のユリシーズ
物見の塔の狭い部屋の中、何もすることがない僕は、このところ泥のように眠ってばかりだ。
目を覚ましても、待っているのは石壁に反射する自分の虚しい吐息と、冷え切った食事、そして感情を去勢された使用人の背中だけ。
書き連ねた手紙の返事はただの一枚とて無く、窓の外に切り取られた四角い空が、僕の無力をあざ笑うように高く澄み渡っている。
意識がある時間にすることと言えば、出口のない「もしも」を回し続けることだけだ。
もし、あの夜。
もし、あの日。
もし、あんな傲慢な言葉で彼女を突き放さなければ。
「……くだらない。反吐が出る」
自分自身への嫌悪から逃れるように、僕はまた重い瞼を閉じる。
眠れば、不快な現実は数時間の空白となって飛び去るはずだった。
だが、最近の眠りは安らぎをくれない。
脳の奥底に沈殿していた古く湿った記憶の澱が、形を成して這い出してくるのだ。
昼夜構わずに夢へ逃げるために、夢の向こうで夢を見る。もはや現実との境が分からなくなりつつあった。
◇
視界が切り替わる。小さな靴音が王城の廊下にペタペタと響く。
あの時、僕はまだ小さく、世界はもっと広かった。
王妃の部屋の前に立っている。
半開きになった扉の向こう、侍女が王妃の長い髪を梳く微かな音が聞こえる。
鏡の前に座る母は、息を呑むほどに美しかった。
白い首筋、氷細工のように整った横顔。
絵画から抜け出したような彼女に、僕は歓喜して駆け寄る。
「母上!」
声をかける。王妃は鏡越しに僕を見た。
だが、その瞳に宿ったのは、我が子を愛でる熱ではない。
道端に転がる石ころを視界の端で捉えたときのような、徹底した、温度のない“無関心”だった。
彼女は一瞬だけ僕を認め、すぐに鏡の中の自分へと視線を戻す。
「勉強の時間でしょう」
静かな声。叱りもせず、ただ僕という存在に価値を見出していない。
侍女が僕の肩に手を置き、外へ促す。
振り返り、もう一度母を見る。
しかし彼女は最後まで、鏡の中の自分しか見ていなかった。
◇
夕暮れ時の廊下。窓の外が血のように赤い。
僕は太い柱の影に潜んでいる。父王の執務室から漏れ聞こえる声に、鼓動が速まる。
「クラウディアは非常に優秀だ。それに比べてあの馬鹿は……情けない」
父の声だ。
紙をめくる音が沈黙の中に響く。
「あの、しかし、ユリシーズ様は……」
宰相が控えめに制止しようとすると、父が鼻で笑う音がした。
「仕方がない。あの下賤な女が母親ではな。私の情けを喜ばなかった不敬な女……あんな出来損ないを生んだかと思えば、城で自殺など」
心臓が、冷たい手で握りつぶされたように痛む。
息がうまく吸えない。
「馬鹿な女の子供は馬鹿ということだ。いっそ、クラウディアと中身を入れ替えられたら良いのだがな」
父の乾いた笑い声が聞こえる。
僕は後ずさり、逃げ出した。
胸の奥が、熱い鉄を飲まされたように焼けていた。
◇
暗い、夜の王城。
僕は吸い寄せられるように、誰も近づかない古い棟へと歩いていた。
昔、自殺した侍女が住んでいたという部屋。
幽霊が出ると噂され、今は不用品が積み上げられた、埃っぽい倉庫になっている。
扉を押し開けると、山積みの箱の奥に一つの小さな木箱を見つけた。
蓋を開けると、そこには安物のリボンと、石もついていない質素な銀の指輪があった。
裏側には、“R to E”という刻印。
箱の底には、赤ちゃん用の靴が入っていた。
手作りの布製の靴は一度も履かれることがなかったらしく、新品のように見えた。
父が壊した、名もなき侍女の幸福。
無理やり手籠めにされ、僕を産まされた。
それでも生まれる我が子は愛おしかったのだろうか。
こうして靴を用意していたくらいには。
しかし女は生後まもなく赤ん坊を奪われた。
その絶望はいかばかりであっただろうか。
顔も知らない母親の嘆きが小さな布から伝わるようだった。
王妃は母ではなかった。
僕を愛さなかったのも当然だろう。
夫の不実の証だったのだから。
父も僕を愛さなかった。
子は慈しむ対象ではなく、血を繋ぐという王の仕事の結果に過ぎないのだから。
◇
そして僕は努力をやめた。
王太子という役を演じる存在がいれば、中身は伽藍堂で構わないのだろう。
その変化に気付く者はいなかった。
怠惰で傲慢で役立たず。
不義の子の無様な仕上がりに、王妃は「それ見た事か」とほくそ笑み、少しだけ僕に優しくしてくれた。
これでいいのだ。
こうするしか、誰の関心も得られないのだから。
僕は空っぽの瞳を細め、口角を上へ歪めた。
◇
夢の中で、小さな僕はその箱を抱えて立ち尽くしている。
そこに、もう一人の子供がやってくる。
クラウディアだ。
小さくて、泣き虫で、甘えん坊だった頃の彼女。
僕の袖をぎゅっと掴み、舌足らずな声で僕を呼ぶ。
「ゆぅり」
——あの頃の、声だ。
ユリシーズと発音出来なくて、愛称で僕を呼んだ、ただ1人の子。
僕の後ろを、いつも小走りでついてきた。
この子だけは違う。
この子だけは、世界中の誰もが僕を蔑んでも、僕を愛してくれる。
僕だけの所有物。
木漏れ日のようにあたたかな、僕だけの避難場所――
その瞬間、夢がガラスのように砕け散った。
◇
目が覚める。
塔の天井に、冷ややかな朝の光が差し込んでいる。
僕は動かぬ天井を見つめ、ようやく気づいた。
「……そうか」
僕の中のクラウディアは、ずっとあの“ 泣き虫で甘えたの少女”のままで止まっていた。
僕と同じように母親を早くに亡くし、父親にも可愛がられなかったあの子が。
唯一の味方だと思っていたあの子が。
逆境にも負けずに、美しく、強く、賢く成長していく。
彼女の成長を認めることは、僕という空虚な虚像が崩れ去ることを意味していた。
だから子供っぽく甘え上手なニィナにその役割を求めたのだ。
あの日嫌悪した大人達と同様、都合の良い幻影を周囲に押し付けて満足していた。
その事実に、ユリシーズは初めて本当に後悔の涙にくれた。
ご覧いただきありがとうございます!
完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




