第102話 戸惑いのユリシーズ
この塔に幽閉されて、一体どれほどの時間が経ったのだろうか。
日付を告げるカレンダーもなければ、王都の平穏を知らせる鐘の音もここまでは届かない。
窓の外に広がる空の色が、薄汚れた灰色から深い紺青へと移り変わるのを見て、辛うじて一日の終わりを知るだけだ。
部屋を訪れる使用人は、石像のように無機質だった。
碌に目も合わせず、義務的に食事を置き、汚れた洗濯物を回収すれば、音もなく去っていく。
重厚な扉が閉まる残響だけが、耳障りなほど大きく室内に響いた。
「……ふん」
ユリシーズは鼻を鳴らし、硬い石床を蹴った。
仮にも王族、しかも国王となるはずだった自分への待遇として、これはあまりに粗末ではないか。
着替えや湯浴みの介助すらつけないとは、不敬にも程がある。
だが、怒鳴り散らそうにも相手がいない。
皿を投げつければ、翌日にはまた同じ無表情な男が、新しい皿を置いていくだけの繰り返し。
この孤独な沈黙を破るには、外部の力が必要だ。
――そうだ、手紙だ。
この窮状をクラウディアに知らせれば、すべては解決する。
僕の後ろを三歩下がって歩き、僕が眉をひそめれば怯え、微笑めば頬を染めて喜んだ。
あの、忠実な奴隷のような女。
愛を囁きさえすれば、彼女は喜んで僕を救い出しに来るに違いない。
ユリシーズは扉の方へ向かい、声を張り上げた。
「手紙を書きたい。次に来る時、何か書くものを持ってこい」
翌日、食事の盆の横に置かれた簡素なレターセットを見て、ユリシーズは顔をしかめた。
王家の紋章も、金箔の縁取りも、漂う香水の残り香もない。
王太子に相応しい品格など欠片もない安物だ。
だが――これは僕からの初めての愛の手紙だ。
クラウディアは、きっと泣いて喜ぶだろう。
ユリシーズはペンを取り、迷いなく書き出した。
【親愛なるクラウディア
何故まだ僕に逢いに来ない。遠慮なんてしないでいい。
あの婚約破棄は、お前の気持ちを試しただけだ。
あんな下賤の女を、僕が本気で相手にすると思っていたのか?
そんなことも理解出来ないなんて、お前は相変わらず愚鈍だな。
だが安心しろ。そんなお前を本気で愛してやれるのは、この僕だけだ。
分かるよね?】
ユリシーズは満足げに頷いた。
威厳を保ち、怒りを滲ませつつも、慈悲を与える。
実に王太子らしい、寛大な内容だ。
ユリシーズは使用人を呼びつけた。
「これをクラウディアに届けろ。今すぐだ」
使用人はわずかに躊躇ったが、手紙を懐にしまった。
◇
――しかし、10日が過ぎても、迎えの馬車どころか返事すら来ない。
ユリシーズは苛立ちを隠せず、2通目をしたためた。
【クラウディアへ
まだ怒っているのか? あまりしつこいと、僕の気持ちはどこかへ行ってしまうぞ。
……なんて、嘘だよ。びっくりしたか?
でも長くは待てないからな。僕だって忙しいんだ。
本当はお前を迎えに行きたいところだが、ちょっとした事情で外出が難しくてね。
だからお前が来い。早く迎えに来い。
あと、来るときは僕の好きなワインも持ってこい。塔の酒はひどいんだ】
◇
――何故だ。
何故、何も音沙汰が無い。
ユリシーズは机を叩いた。
まさか、届いていないのか?
いや……女という生き物は感傷に弱い。
もっと彼女の涙腺を刺激する、叙情的な言葉が必要なのだ。
彼は深刻な悲劇の主人公になりきり、3通目を書き上げた。
【愛するクラウディア
あの時の僕は、悪い魔女の魔法にかけられていたんだ。
だからあんな酷いことを言ってしまった。本当の僕は、ずっとお前を想っていた。
その罰なのか、今僕は高い塔の上に囚われている。ラプンツェルみたいだよね。
でも僕には長い髪がない。だから、お前が迎えに来るしかない。
どうかペガサスの翼で迎えに来てほしい。お前なら出来るはずだ。
だって、お前は僕を愛しているんだから】
「……完璧だ。これなら間違いなく泣き崩れるだろうな」
◇
結論から言うと、それらの手紙がクラウディアの手に渡ることはなかった。
王族に届けられる書状は、すべて厳しい検閲を通過しなければならない。
執務室の机の上。
事務的な手つきで封を切った書記官は、1通目を読み、沈黙した。
2通目を読み、さらに沈黙した。
そして3通目を読み終えると、ゆっくりと紙を机に戻した。
「……これは」
隣の役人が内容を覗き込み、数行で顔をしかめた。
「ひどいな」
「どの意味で?」
「文体、論理、精神性……全部だ。特に、自分をラプンツェルに例えるあたりが、鳥肌ものだ」
役人は深い溜息をつき、肩をすくめた。
「渡す価値、あるか?」
「皆無だ。時間の無駄。こんなものにあの方を煩わせるわけにいかない」
その場にいた全員の合意のもと、手紙の束には冷徹なまでに鮮やかな赤い印が押された。
――不許可。
手紙はそのまま机の隅、埃を被った紙束の山へと積み上げられた。
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完結まで書き溜めておりますので、順々に投下していきます。
お楽しみいただければ幸いです。




